十六話:お化け。
吾輩は、冬将軍である。
いよいよ、果てしない旅に出た吾輩達。
腹ごしらえに松の生気を啜ったが、やはり不味かった。
とりあえずは満腹になったので、再び南へ向けて進もうとした、その時――、
吾輩は、もののけの存在を感じ取り、誰何の声をかける。
だが、一向に姿を見せなかった。
もしかすると、まだまだ幽霊の類で、姿を現す力が無いのかも知れない。
そう思い至った吾輩は、奴が具現できるように、自らの力を分け与える事にした。
そうして――、
ついに、誰の目にも見えなかった幽霊が、明らかになってゆく。
「ふええええええっ、出っ、出たのですっ、出たのですよっっ」
吾輩の左手にしがみついてガクガク震えている我が女房の目前に――、すなわち我が右手の近くに、今まで見えなかったモノが、うっすらと現れたのだ。
「おっ、おっ、おっ……、お化けですううううううっ、お化けなのですううううううっっ」
金切り声を発して狂乱する女房の雪音。いつものあざとい演技ではなく、本気で怖がっているようだ。
「ちっ、血まみれっ、なのですっ、ふみゅうううううう………………っっ」
まさに、ばたんきゅう。
幽霊の凄惨な姿を目の当たりにした雪音が、堪らず失神する。
まぁ、あれだ。
静かになって話をしやすくなったので、むしろ好都合――と、言うべきか。
ただ――、
この幽霊はあまり、良いモノではない――かもな。
「何故……、僕を刺したんですか?」
うつむきながら呟いている、男子の幽霊。
ズタボロになった着物を赤黒く染め、ぼとぼと滴り落ちている血――だが、これは幻影であり、足下の雪は真っ白のままであった。
どうやら、胸から腹にかけて滅多刺しにされて、亡くなったようだ。
「何故……、僕を刺したんですか?」
うつむきながら、再び同じ言葉を繰り返す、男子の幽霊。
年の頃は――まだ容貌はあどけない。二十歳は過ぎて無さそうだ。
木箱のような物【行商箪笥】を背負っているので、おそらくは旅の商人であろうか。
菅笠に合羽、蓑に藁靴、冬の防寒装束で着ぶくれしているが、やや小柄な体格のようだ。
「何故……、僕を刺したんですか?」
うつむきながら――、これは延々と――、繰り返すであろうな。
こうした幽霊が“気の力”を得れば、己の思うままの姿を現世に映せるのだが、見ての通り、彼の姿は非業の死を遂げた瞬間である。つまりは、殺された事に執着し過ぎて、悪霊と成りかけているのだ。
「そなたの事、聞かせてもらえんだろうか?」
吾輩の声に反応し、顔を上げた男子の幽霊。恨みがましい目で睨みつけられる。
とにかく、話が通じる事を願うしかない。
「あんたが……、僕を刺したんですか?」
「いや、吾輩は、ただの、通りすがりだ」
ゆっくりと咀嚼するかのように、言葉を紡ぎ出す吾輩。
「そなたに“気の力”を、分けた者だ。こうして、話せるのも、吾輩の、おかげで、あるぞ」
「そうですか……。確かに、あんたはキツネのお面を被っていないですね……」
ふむ――。
下手人【犯人】は、キツネのお面で顔を隠していたのか。
だとすれば、捕方【刑事】の内情を熟知している、かなり厄介な相手かも知れない。
そう――。
吾輩が今から行おうとしているのが、証拠不足などで捜査が完全に行き詰まった時の捕方【刑事】が採る、最終手段であるからだ。
しかも、殺害された幽霊と話せるのは、ごくわずかな実力者だけである。いや――そもそも“気の力”と“怪の力”の仕組みすら、世間一般には知られていない。
これらの事柄から察するに、少なくとも、端から彼者を殺すつもりであったのは明らかだろう。
「そなたは……、商人とお見受けするが……?」
とりあえずは、あまり刺激しないように、基本的な質問から話に入る吾輩。
「その通りです……。鶴城から来た、ただの商人ですよ。僕は……」
彼者の言葉と発音に、変な訛りは無い。この鎮西【地方】の出身であるのは確かなようだ。
「何故、こんな辺鄙な場所に……?」
「北汰分で商いをする為に、はるばる来たんですが……、僕はこう見えて……、方向音痴でしてね……、いろいろと寄り道をしてしまって……、こんな針葉樹林の中に入ってしまったんですよ……」
次第に、彼者の息が荒くなっている。良くない兆候だ。
「そうすると……、キツネのお面を付けた……、あんたみたいな……、太刀をぶら下げている男が……、いきなり……、刺し……」
「落ち着けっ、そなたの無念は吾輩が晴ら……」
最後まで言う暇もあらばこそ――だった。
「うああああああっ、何故なんだああああああっ、何故っ、僕は刺されなきゃいけなかったんだああああああっ、何度もっ、何度もおおおおおおっ、串刺しにいいいいいいっ、僕にっ、何の恨みがあるってゆうんだああああああっ」
無念の死を遂げた怨念の咆哮が、雪煙を巻き上げて響き渡った。彼者は今、中途半端に“気の力”を得ているので、現世に少し干渉できるのだ。
もはや――こうなっては、一切の話は通じないであろうな。
「あっ、あんたのっ、その身体をっ、僕によこせええええええっ」
鬼気迫る形相で両手を頭上に掲げながら、吾輩に襲い掛かる幽霊。
憑依するつもりであろうが、生憎と――。
気合い一喝。
吾輩を中心に、重い衝撃を伴った寒波が爆散する。雪柱が立ち昇り、辺りに群生する蝦夷松の枝に積もっていた雪が、瞬時に吹き飛んだ。
「ううう……っ、うく……っ」
非実体の幽霊であるはずの彼者が、うめき声を上げた。
先ほど放った吾輩の寒波が“怪の力”を削いだのだ。幽霊にとってそれは、いわゆる傷を負った状態に当たる。
「そなたを切りたくはない、鎮まるがよい……」
腕を組んだ吾輩は、うずくまって震えている幽霊を見下ろした。
もう、襲い掛かる力はあるまい。
【 】内は現代語訳と省略用語、“ ”内は強調単語、重要固有名詞であるもののけともののふの表記は、ひらがなと混じっても読めるようにする為、( )内は口に出さないセリフ、つまり心の声です。