目の前の君へ
もう、ここには人がいなかった。
生物というものが、いなかったのだ。
機械は、動き続ける。命令を担っているから。
地球は、動き続ける。まだ、生きることが出来るから。
昔々、それはもう気の遠くなるくらい昔。人は少なくなる資源を理由に争い、人を殺し、生きるための水や食糧を何とか確保してきた。しかし、それが尽きるのも時間の問題だった。
最後の戦争が終わると、人は飢え、争い以外で死ぬ者が増えていった。そのなかで、人は今までの叡知を結集させ、資源のある別の星へ移動する機械を造り上げた。
しかしその船は生きている全員が乗れるはずがなかった。上層部は人類を選抜し、選ばれた者はそれに乗り新しく生きるために地球を出ていった。
残った者はただ死を待つだけだ。もう生きる必要がない。
自ら死を選ぶ者、新しく機械を造ろうとするもの、ただただ生きる意味を嘆く者。もうそこには、笑顔の欠片もなかった。
果たしてこれは皆の望んだ未来だったのだろうか。人類が生き残るための正しい選択だったのだろうか。もう、宇宙船の彼らとは連絡がとれない。だから、誰にも分かるはずがない。
地球、宇宙。そこには、選ばれた者と選ばれなかった者の大きな格差があり、絶望があり、心を掻き乱していく材料であった。
人類は、思い出を作った。
それを乗り越えるために、きっと現実から目をそらすために。ある時から、飲めや歌えや、踊れやのお祭り騒ぎになった。もう、資源はないはずなのに、ゼロから無理矢理生み出し、使っていった。
もちろんそれに不満をもつ者も多かった。しかし彼らは所詮少数派でしかなく、意見を聞き入れてくれるはずもない。だから、彼らは今までトップレベルであった人工知能の技術を使い、ロボットを作った。
彼らは今までの歴史とこれからの思い出をロボットに託した。そして皆で願った。どうか、次の生命がもしあったら、ロボットが私たちのことを伝えてくれますように。皆はその時一度だけ、本当の笑みをこぼした。みんな、お疲れさま。そう言った。
そして、残りの資源は一つだけになった。土と石しかない地に彼は立っていた。もう生きられる環境ではない。だから、彼もこれから死を待つだけだ。
彼は、最初は少数派だった。同士を喰らって生きるより、皆と共に死にたかった。しかし最後の最後に、多数派の者となってしまった。
しっかり食べたのに、すべての者より長く生きられるはずなのに、きっと昔の自分なら今までで一番幸せだと思うはずなのに、涙しか出てこなかった。
彼は変わらない景色のなかをふらふらとさまよった。後ろから、従順なロボットがついてくる。地球はとっくのとうに風化し、崩れた瓦礫が積み重なる異様な土地となっていた。緑は何処にもない。まして、生物もいない。
……果たして、地球をそうしたのは、誰のせいであろうか。
他でもない、人類のせいだ。
彼はとうとう足を止めた。疲れた足を無理矢理歩かせたからであろう、もう動けなかった。
彼は、最後の力を振り絞り、ロボットに問いかけた。
「……なあ、何が一番、地球で、誇れると思う?」
ロボットは口がないから答えない。彼は大きくむせ、血を吐いた。しかし、言葉を必死に紡いだ。
「みんな、悪い方しか考えないから、いいところなんて、誰も見向きも、してなかったけど。さっきの俺も、悪いことしか、考えてなかった。でも、今改めて考えてみて、分かった」
ロボットは大きな目で彼を見つめた。彼は微笑んだ。
「地球は、俺を、ここまで生きさせてくれた。大切な人と、会わせてくれた。充分、誇れるだろ。充分、自慢できるよな」
いよいよ目を閉じてしまった。ロボットは次の言葉を待つ。
「お前は、きっと知ってる。何が、正しくて、悪いのか、今までの歴史が全部詰め込んであるから、分かるはず。だって、俺らが作ったんだもんな。だから、ロボット、最後の願いだ、聞いてくれ」
「……ありがとう」
……ロボットは彼を置いて走り去った。彼はもう動かなかった。
歴史というものは、必ず終わる。そこに涙があって、笑いがあって、とても濃く鮮やかなはずなのに、その未来では誰も覚えていない。思いも、気持ちも、はち切れんばかりの叫びも、終焉が来れば、何もかもがゼロになる。
だから、彼らは今を大切に生きていた。その一瞬を思い出と言った。そしてそれを切り取り、彼らの人生の終わりが来るまで、たとえ誰も覚えていなかったとしても、大切に扱い、生きる種とした。
……ああ、僕は。生命でない僕は。彼らの重い心を、背負ってしまって良いのだろうか。ここには誰もいない。誰も僕のことを知らない。だからこそ、僕が覚えていかなきゃいけないのだろう。
もし次の生命が、地球に降り立つのであれば。二度と同じことは、繰り返してはいけない。
僕は、動き続ける。命令を担っているから。
地球は、動き続ける。新しい生命が、再び終焉を迎えるまで。
……ああ、どうも。ついに出会った。新しい生命である、目の前の君。