ねえ君、
「ねえ君」と僕は彼女に声をかける。「君はいつからこの部屋にいるの?」
「……」
けれども彼女は何も言わない。
「ねえ」
「え? わたし?」
ようやく彼女は反応し、すすきが夜風でこうべを揺らすように、顔をわずかに動かす。全体として線が細い彼女だ。表情に乏しい印象を受ける。だから見る人によっては、彼女は常に怒っているのだと勘違いするだろう。
僕はそんな彼女の横顔をいつも見ていたから、表情がいつも違うのを知っている。話しかけたのはこれが初めてだったけれども。
「そう、君だよ」と僕は大げさにうなずく。「ずいぶん目を丸くするねえ」
「うん……。驚いたから」
彼女の声は少しかすれていた。僕のように病気なのだろうか。
「急に話しかけたから? ごめんね」
「うん。別に」
「そっか。話すの苦手だったかな」
「そうじゃないけど……」
はにかみがちな彼女。どう見ても苦手な部類に入るだろう。僕は少し笑う。
それを見て、彼女は警戒をちょっとゆるめたらしい。一拍おいたあと、話しかけてきた。
「あなたはこの部屋にいつからいるの?」
「僕かい。僕は……あー、どのくらいだろう。カレンダーあるかな」
「あそこに」
彼女が示す先には扉がある。この部屋を出入できる唯一の扉はいかにも重厚で、めったに開かない。
先生の許可がない限り、僕は出入りしてはならない。
その扉にはカレンダーがさがっている。
「えーと、今日は何月?」
「あったかい日ね」
「うん。何日だっけ」
「忘れちゃった」
「そう」
「うん」
「……」
「……」
会話が終わってしまった。せっかくがんばって声をかけたってのに。
ぽとり、と彼女の足元に髪飾りらしきものが落ちた。彼女はそれを拾おうとしない。僕はそれを見ないふりをした。
新たな話題を探す。しかし、この部屋には扉と窓とカレンダーと、そして彼女しかいない。話題のネタなんて、ない。
「この部屋、狭いね」
「そうかしら」
「ああ。だって」と、僕はベッドから降り立ち、なるべくおどけた調子で壁までスキップする。
扉を開けさえしなければ、僕は自由だ。たとえばベッドから降りて歩くとか、窓辺から外を眺めるとか。そして彼女と話すとか。とにかく、この部屋の中にいさえすればいい。
「ほらね。五歩も歩けばすぐ壁だ」
僕は打ちっぱなしのコンクリート壁に逆立ちして両足をつけた。
いきなりのことに、さすがの彼女も驚愕を隠せないようだ。ほとんど無表情の中に、驚きの色が浮かぶのを僕は見逃さなかった。
なんだか、少し勝った気分だ。
「よ、……っと」
逆立ちをやめ、僕は片方の手の平を胸の前で上に向ける。ちょうど、シルクハットを脱いで観客に一礼するピエロみたいに。
「……」
彼女は相変わらず表情に変わりがないように見えるが、笑っているふうに僕には見えた。
ひらかれた窓から陽気な風が吹き込む。床の塵がわずかに舞っている。差し込んだ陽光にきらきら光って、たかがほこりなのにきれいだ。
そしてあたたかだった。彼女もそんな風を心地よく感じたらしく、前髪をすこしく揺らす。
「すごいわ」
「普通だよ」
「そんな元気なのに、なんでこの部屋に?」
「なんでだっけな。思い出せない」
ただ、思い出せなくても、それほど大したことではないと僕は思う。そんなことより彼女と話せた。そっちのが大事だ。
ガチャガチャと鍵を開ける音。
そして、コンコン、という乾いた音。
扉がノックされる音だ。
「はい」と僕は返事する。それと同時にベッドにもぐり込んだ。
一応、安静にしていたようにつくろう。彼女はそれを見て、なんだか愉快そうにしている。だから僕も少しうれしくなった。
「失礼するよ」
扉が開かれて入ってきたのは白衣を着た、先生だった。
「先生」
「やあ。調子はどうかね」
白衣姿の先生は僕のベッドのかたわらに立つ。そのうしろから看護婦が入ってきて、籐のいすを先生のうしろへ置く。先生は腰掛け、聴診器を手にする。
いつものことだ。あの道具で僕の胸の音をきくのだ。
「いえ。いつもと変わりありません。ありがとうございます」
「なら良かった。はい、息を吸って、はい、吐いて」
僕はその指示に従う。
彼女の前だからパジャマをはだけさせるのが気恥ずかしい。一年近く同じ部屋にいるが、いまだに慣れない。こんなときは彼女も気を使って、そっぽを向いている。
「よし。大丈夫みたいだね」
「はい。おかげさまで」
「その調子だ。また来るよ」
「先生。今日は天気がいいですね」
帰りがけの先生は目を丸くする。当たり前かな、と僕は思う。僕が先生へ無駄口をたたいたのはこれが初めてだ。
看護婦は彼女に「何が欲しい? お水?」と聞いている。この看護婦はいい人だ。
「ああ、たいへん陽気だ。たまには窓辺に行くといい」
「はい。今日も風が気持ちいいです」
「そうだな。気分転換にいい」
「窓の鉄格子はいつ外してもらえますか」
「さて。もう少し容態が安定してからでないと」
「そうですか……」と僕は彼女に向いて、残念だねと言った。
看護婦は、眉にしわをつくっている。
「僕にも水をください」
先生が僕にたずねる。
「彼女は元気かい」
「はい。とても」
「それは良かった。では、彼女のためにもじっくり治しなさい」
「はい。ありがとうございます」
先生と看護婦は扉から出て行く。
これでまたしばらく、来訪者はいない。夕飯まで彼女と二人きりだ。
「あの看護婦はいい人だと思う」
「そうね。わたしにも水をくれた」
うれしそうな声だが、彼女は水を飲めるのだろうか。あんなに肌がかさかさしている。
「飲める?」
「少し」
急に彼女がいとおしく思えた。
僕は彼女にやさしく手を伸ばす。彼女はそれを拒絶しなかった。その茶色くなった手に、そっと触れる。一年ぶりに、大事な人と出会えたようだ。
慎重にさわらないと、そうでないと彼女はたちまち崩れ落ちてしまうだろう。
扉を閉めたあと、看護婦はそれにしっかりと鍵をかけ、先生は重々しくうなずいた。
「よし。昼飯にするかな」
「先生。あの患者、気味が悪いです」
「ああ。さほど気にすることはないよ。幼い頃に両親に死なれたんだ。自暴自棄になるのも分からないことではない。窓の鉄格子だって外せないね。飛び降りられたら困る」
「それはまあ」
「肉親は一人残った妹だけだ。その妹さえ不慮のことで死んだら、わたしだって取り乱すよ」
「そうですけど」
「ちょうどこんな陽気な日だったみたいだね」
「ええ」
「彼は、その妹を追うことに失敗した。しかし君のおかげでだんだん元気になっているんだ。これはいいことだ」
「だって先生。話しかける相手は花瓶に生けられた花ですよ。私があの花を生けたのは一年も前です。今も見ましたが、とっくに枯れています」
「それでもいいじゃないか。彼はもう一人じゃないんだ。それに見たかい。花びらだってほとんど枯れ落ちるまで愛されて、あの花だって本望じゃないか」