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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
壱、 迎春の宴
8/47

 3

 斎藤の剣の腕前を伊東陣営が目を付け始めたきっかけがある。槍の名手だった七番隊組長の谷三十郎の頓死だった。


 谷の頓死の情報は宵の口に屯所に入った。

 監察の篠原と斎藤が現場に駆け付けてみると、胸元から背中にかけて一太刀でやられた谷が、上半身を立てたまま事切れていた。

 腰元の剣に手を掛けてもいない亡骸は、いっそ壮絶だった。

「突きで一刺しか。槍の先生でも得意の得物がなければただの人だな」

 滅多に無駄口を叩かない斎藤が零した言葉に、我に返った篠原は改めて谷の亡骸を検分し、あまりにも見事な突きに唸り声を漏らした。谷の死を悼むよりもまず、驚愕と困惑の感情が勝ったのだ。

 そもそも剣術の『突き』を得意としているのは新選組だ。間取りの狭い京都の家屋や路地で振るう際に、近藤らが修める天然理心流の剣術が役立っている。だからこそ逆に対策が練られていた剣技でもあったのだ。谷とて、平隊士相手に道場で策を講じていたはずなのに、抵抗ひとつできなかった。相手は余程の手練れであったのだろう。

 ともかく遺体は屯所に引き取り、供養したのだが、近藤も土方も下手人を捜そうとはしなかった。

 近藤には養子がいた。それも亡くなった谷の弟を、養父の名から周平と改名させていたほどの可愛がりようだった。なのにこれと言って近藤が騒がないのは不気味でもあった。

 後日のことだが、周平は元の谷姓に戻っている。

 谷自身、同志切腹の介添えを失敗したこともあり、周囲から白い眼を向けられていたのは事実で、隊での居心地の悪さに酒に走りがちだった。(奇しくも失敗した介添えを代わりに行ったのは斎藤だった)そして、酒に酔った上の喧嘩騒ぎで命を落としたのだろうか。否、暗殺されたのだと、密かに囁かれてもいた。

 その理由の一端として、自身の弟が実は高貴な身分の御方の御落胤だと近藤に打ち明け、その血統に惹かれた近藤が縁故を結びたいと谷に打診していたと言うのだ。

 局長直々の申し入れにも関わらず、なかなか首を縦に振らなかった谷だが、いざ近藤と縁故繋がりになると、権威の傘に態度が大きくなった。その変わりように眉を顰めた幹部たちだったが、平隊士たちはそれだけではすまなかった。

 局長への不満や悪口を少しでも谷の前で零せば、ていの良い点数稼ぎとして近藤の耳に告げ口をされてしまうのだ。最悪、切腹沙汰になりかねないと、『槍なら天下一の谷先生』と慕っていたはずの隊士でさえ、当然のごとく谷から離れていった。

 谷が意気揚々と道場に赴いても、誰も稽古をつけてもらおうと動く者はいない。ようやく己が白い眼で見られていることに気付いた谷が、大声で何か喚き散らせど、誰も相手にはしなかった。

 また、仰々しくうたわれた血統も偽物だったとぼやく近藤を見た、聞いたなどと噂されていたほどだった。


「そういえば斎藤さんは左利きだったな」

 ある時、篠原が探るような眼差しで斎藤に話しかけてきた。

「ああ」

 特に隠すこともない周知の事実に、斎藤は答えた。

 あの見事な突きから下手人は相当な剣の使い手の仕業だと、篠原は確信していた。また、谷が剣を抜く暇もなく油断していたことから、顔見知りの犯行ではないかとも考えていた。

 新選組内で『突き』と言えば、沖田総司の『三段突き』が有名だ。だが、沖田の犯行ではないと考えていた。ましてや『突き』自体、新選組では珍しくない技のひとつだ。

 何故ならば、局長である近藤が振るう天然理心流の実践的な剣術が、京都の間取りの狭い部屋や路地での戦闘に非常に合い、平隊士たちもこぞって習得している技でもあるのだ。

 対する斎藤は無外流の使い手。必殺でもある『突き』自体、どの流派にもある型だ。だが、敢えて新選組を彷彿とさせる技で新選組の幹部を殺傷する理由があるのだろうか。

 それこそ大所帯の新選組の中で、斎藤の名を挙げるには訳がある。

 何故なら見廻りの者からの知らせで斎藤と共に現場へと駆けつけたのだが、その知らせを受ける少し前に、斎藤が外出から戻っていたことを思い出したからだ。

「谷さんが受けていたあの突きに、ちょっとした癖があったのに気付いてね」

「それと俺の利き手に関係が?」

 篠原の指摘に、斎藤が苦笑する。

「あれは、斎藤さんがやったことだろう」

 しばらく沈黙が訪れた。

「下手人検挙に熱心な篠原さんには悪いが、流石に槍の名手と名高い谷さん相手に、あれだけの太刀筋は持ち合わせていない。見込み違いだ」

 斎藤の冷ややかな眼光を向けられた篠原は、脂汗を滲ませてちいさく非礼を詫びるのに終えた。そして斎藤を背にすると、まるでそこに真剣が食い込んでいたかのように、そっと喉を撫でた。

「……あれは故意でしたことなのか」

 人柄は置いても谷は槍の名手。いくら同じ幹部同士、既知の間柄で油断をしていたとしても、検死を踏まえて敢えて「突き」を鮮やかに繰り出す斎藤の剣の腕──。

 そっと振り返った篠原は顔を強張らせた。斎藤がじっとこちらを見ていたからだ。

 篠原と目が合い、薄く笑みを口元に履いた斎藤は、背を向けて歩いてゆく。篠原はしばらくの間、不自然な格好のまま動くことができなかった。


 そうした経緯を経て、当時まだ新参者だった伊東陣営は、実際に出動やら稽古やらで斎藤の実力を目の当たりにし、一目置くようになったのだ。

 だが、暗殺という暗部の仕事をこなしている斎藤は、近藤らの息が掛かっていることになる。けれど、今は近藤派の一員に収まっている斎藤だが、京都での人員募集時に入隊してきた男でもある。近藤派とは出身が異なり、付き合いも浅い。本来ならば中立の立場にいる人間であって、その気があればこちらの陣営に引き込むことも可能だと、伊東は考えているのだろう。

 そう思わせるだけの魅力が、斎藤の剣にあったのだ。新選組の中でも屈指の剣客と言わしめる沖田総司、永倉新八と同等かそれ以上の実力を持たなければ、幹部の一員には到底成り得ていなかったに違いないのだから──。

「斎藤はん、手ぇがお留守どすえ。もうお酒はよろしゅうおすか?」

 思考の海に沈んだ斎藤の意識を引き寄せた女芸者は、男の視線をゆるやかに捕らえて微笑んだ。

 かすかな含みを宿すその微笑みを敢えて無視し、斎藤は盃を傾けた。

「……いけずなおひと」

 空いた盃に酒を注ぎながら、女は意味深に耳打ちする。

 甘やかな囁きの余韻を楽しみつつ、酒をゆっくりと仰げは、京酒特有の女酒といわれるやわらかな飲み心地の芳醇な甘さが口中でじわりと広がる。

 隊士たちと妓女たちの喧騒の中、斎藤はおおいに飲んだ。


 一日目が過ぎてゆく。


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