5
夜明け、鈍く射し込む陽に輝く雪景色の中に、若い僧の死骸がそこにあった。
剃髪に使う剃刀で、自身の首を何度も斬り付けたのだろう。白い雪の上に、大量の血飛沫と大きく窪んだ血溜まりができている。
境内の僧侶たちが早朝から蒼白な顔で騒然となる中に、吏鶯がひっそりと佇んでいた。だが、その吏鶯の胸にぴったりと寄り添う佳人の姿を、見咎める者はいない。
そう、彼等には見えない。また、滲み出る匂やかな麗質さえ感じ取ることもできない。……確かにそこにいるのに、認識できない存在。ヒトでない存在。
たとえば、胸中に吹く喪失感という空虚な風を感じてはいても、はっきりと何を失ったとは気付けないのも、やがてその感情も薄れ、違和を抱いたことすら忘れてしまうのも、当然のこと。……それが当然の姿だったのだ。
ヒトのフリは飽いたと宣言した通り、興を引かない者たちすべてを切り捨てた佳人は、鮮烈な血の赤と眩い雪の白さを眺めて微笑んでいた。
「……美味そうな色だと思わぬか?」
唇から零れたちいさな舌先に、吏鶯は改めて魔性の残酷さを感じ取って、背筋が寒くなるのを覚えた。
「人は人の罪を裁くことができますが、本当の意味での断罪は、その者自身の意志に頼らざるを得ないことが多い。……おそらく然楽は、己の罪の意識から逃れられなかったのでしょう」
吏鶯が沈痛に顔を歪めながら羨ましそうに呟けども、己を襲った男の名を改めて知った佳人の表情に、これといった変化はなかった。否、あるとするならば、何かに苦悩している吏鶯に興味があった。
「そなたはどうする?」
意地悪げに問われた吏鶯は、軽く目を見張った後、弱々しげに微笑んだ。
「骨身に染み付いた仏道です。やはりすべてを捨てることはできませんが、だからと言って貴女を切り捨てることも到底叶わない……」
話をしている途中からちいさく笑い出した佳人に、吏鶯は困惑する。
「椿姫」
教えられた真名ではなく、もう呼ぶ必要もなくなった愛称で佳人を呼ぶ。それを聞いて、一度は満足げに微笑んだ佳人は、すこし残念そうに顔を曇らせて舌打をした。
自ら進んで教えた真名とはいえ、滅多なことでない限り、口にしてもらっては都合が悪いのだ。真名の響きに拘束力や支配力が働くことまで教えてはいないが、聡明なこの男は本能的に悟っているのかもしれない。
やはり、これまで見てきたヒトに比べて上出来な部類の人間だと再認識すると共に、男の気と精を絞り尽くさなかった己の慧眼にも満足する。
だが、軽率にも真名を呼ぶようであれば、ためらいもなく八つ裂きにしてやろうと考えていただけに、魔性の本能を存分に発揮する機会を逃した、残念な気分になったのもまた事実だった。
「では、あの血溜まりを啜る姿を見ても、まだ言えると?」
「……貴女にとって必要な行為であれば、受け入れます」
わざと嫌悪や恐怖を煽る言葉を投じた途端、生真面目にも苦悶の表情を浮かべる吏鶯に、思わずちいさく笑い噴き出してしまう。
「そなたは可愛い」
図らずも楽しく、可愛い玩具を見い出せたことに、花の化身である椿姫は満足げに微笑んだのだった。