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雪もちらつく寒くて辛い鳥羽伏見の戦いの後、満開の桜が風に舞い散る江戸では無血にて開城した。そして江戸を脱した旧幕府軍は東北へと移動し、茹だるような暑さの最中、敗走続きの戦渦に身を投じている。
そう、あれほど多くの人間たちがひしめき合い、暗い思惑に剣戟の音と血生臭い空気を湛えていた京都の町は、不気味なほど静かだった。
「多忙極まりない貴方が、時間を割いてまで会いに来てくださるなんて、何か裏でもおありですか?」
「相変わらず、切り返しが辛辣だね」
最早苦笑を浮かべるどころか、優雅に微笑む岩倉に、吏鶯はうんざりする。
「慶喜公は恭順を示しました。徳川家と直接対決ができなくなり、歯痒い思いを私にぶつけないでください」
「それもあるが、今日は報告があって来たんだよ」
「では、決まりましたか?」
吏鶯は花のような笑顔を浮かべた。比べて、岩倉の胸中は複雑だった。
「ああ、反論者が出るには出たが……」
「勿論、押さえ込んで決定したんですよね。で、いつになりました?」
気が焦ったのか、吏鶯は岩倉の言葉を遮ってしまう。
「……やっぱり、君を京都に残すのは惜しいな」
もう一度考え直さないかと、目で訴える岩倉に、吏鶯は静かに頭を振る。
岩倉は溜め息を零した。
「東幸は九月二十日と決まったよ」
「そう、ですか」
ほっと安堵する吏鶯に、岩倉は少し恨みがましい顔を見せた。
「公卿たちの反対を押さえつけるのに結構骨が折れたよ。それなのに、一言で終わらせるなんてねぇ。感謝しろとはいわないし、労ってくれとは……言わせてもらえないのなら、せめてもっと慶んでくれてもいいじゃないか?」
東北が平定されていない段階での東幸は時期尚早だとか、くすぶる戊辰戦争の最中、これ以上の出費は避けるべきだとか、歳若い天皇の長旅は無理があり、反新政府軍にとって恰好の的になるという懸念の声を──要は執政の場を変えることに消極的な面々を、漸う押し切ったことを切々に言って聞かせる。
すると吏鶯は薄く笑った。
「東幸──いえ、遷都の話に乗り気だった貴方なら、難しいことではなかったはずです」
「……確かに、君の案はそのまま使わせてもらったとも」
苦虫を噛んだかのような顔で、岩倉は吏鶯を見た。
「幕府は事実上、なくなった。戦争を終わらせる為、早急に政治の一新を図らなければならない。……諸外国が漁夫の利を得ようと囲み、舌なめずりしているのだから。これ以上の内戦は、先立っての清国の二の舞になる。その為には、因果に凝り固まった朝廷、恩讐根深い古き土地から天皇家を解放することが必要だ」
「ちょうど良い立地が空きましたからね。しかも無血のままに」
すると岩倉は密やかに笑った。
「江戸城無血開城は、思わぬ拾い物だったということだな」
「整備が整った新しい場所に、古都京都から程良い距離」
吏鶯はゆっくりと紡いでゆく。
「新しい政治の象徴として、天皇を民に親しんでもらうには、まず天皇を知ってもらわなければいけまません。仰々しいほどに宣伝して行幸すれば、勅を出す以上の成果が出るでしょう」
「遷都の案を、初めて君から聞かされた時は、滑稽夢想と思っていたひとりだったが……」
感嘆の眼差しを向けた岩倉は、首を傾げた。
「それだけの知略を持ちながら、政治に興味がないなんて嘘だろう」
「私はただ、貴方を早く追い出したいだけです」
「……せめて、元老の一員に加わる気はないかい?」
「ご遠慮します」
にべもなく拒否する吏鶯に、岩倉の頬が緩む。
「何度振られても懲りないよ」
吏鶯もまた微苦笑を浮かべた。
「これからも私は、この地を離れるつもりはありません」
「……死期を早めると知っても尚?」
「寿命ですよ」
「いや、違うだろう。遷都を勧めた目的のひとつに、弟君の睦仁親王の身を案じてのことは明白だよ。恩讐の根城でもある千年王城の京の都では、天皇家の血筋たる者たちを早世させてしまう運命なのだろう? ……だからこそ、一度も戦がなかった江戸の町を勧めたのだろうに」
「この地をこれ以上、戦渦に巻き込みたくないだけです。私が死した後、悪戯に彼の女を具現させることのないように、根回しをしているのに過ぎません」
そっと己の膝を見下ろした吏鶯は、穏やかに微笑んだ。
「私が存在しない時代に、具現化したくないと言うのですから」
岩倉もまた吏鶯の視線を追い、深く嘆息をつく。
「妬ける妬けないのではなく、胸焼けがする。……こうゆう時、我が身に宿る闇が疎ましく感じてしまう。時々、自らの闇を晴らしたあの侍が羨ましく思うよ」
柄にもなく沈んだ声音で呟く岩倉に、吏鶯はくすりと笑った。
「闇が晴れたと言っても、なくなった訳ではありませんよ。常に人は、心の中に清濁を併せ持っています。それが人の性というものです」
目を閉じ、手に持つ数珠を仰々しく額に掲げた吏鶯は、悪戯っぽく微笑んだ。
「人の心は柔軟に出来ています。それこそが、矛盾する陰陽を上手くつり合わせているのです。例えば、どちらか一方に天秤が傾いたとしても、対称となる器は空ではなく、並々と溢れているもの。己の心に光と闇を併せ持ってこそ、人というものです」
「悟りの極致なのかな?」
からかう岩倉に、吏鶯は肩を竦めた。
「いいえ、開き直りです」
すると岩倉は声に出して笑った。




