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ふたりの動揺に臆することなく、斎藤の口元には自然な笑みが刻まれていた。
「俺の決着はついた。悪いが、一抜けさせてもらう」
「……そんな」
愕然となる吏鶯に、斎藤は意外げに目を瞬かせた。
「愛しい女を斬られる心配がなくなったんだ。寧ろここは、喜ぶところじゃないのか?」
確かにそうだ。あれほど警戒していたと言うのに、いざ解消された後に感じるこの喪失感は何なのか──。
それが答えられず、吏鶯は口を紡ぐ。
「貴殿の闇は、俺よりも深い。どちらを選ぶのか興味はあるが、留まって見守るのは流石に悪趣味だろう」
身体ごと振り返った斎藤は、吏鶯の顔を見つめた。最後まで救ってやれなかった藤堂の顔が幽かに重なり、苦笑を禁じ得ない。
(……救ってやれなかったなど、呆れたおこがましさだな)
そう、あの結末を望んだのは、藤堂自身の意志に他ならない。斎藤は吏鶯の顔を──見えもしない藤堂の幻影を、じっと見据えた。
「一さんの心配顔も板についちゃったね」
いかにも藤堂らしい、皮肉った物言いの幻聴が聞こえてきそうだった。
それは自己満足からくる甘えからなのか、それともあの女が魅せる最後の不思議だったのかは解らない。ただ、照れた顔をした藤堂がこちらを見て笑うのが見えた。
後はもう、抱えきれずに取り零してしまった、藤堂が藤堂とたらしめていた多くの輝きを、命が尽きる寸前でもいい。何かひとつでも拾い上げてくれていたらと、切に願うばかりだ。
そしてそれは、藤堂の幻影が消えても尚、存在する若き僧侶──吏鶯と名乗る青年に向けて願うことでもある。
彼もまた、己と似た闇を抱えている。
生に対する執着はどこか希薄で──それはもしかしたら罪悪感があったのかも知れない。だからこそ誰かに断罪されたいと願っていた。
だが、結局それは一種の逃避でしかない。
真実心に秘めた想いは、己と同じであって欲しいと願うのだ。
「貴殿の闇が晴れることを願う」
そう言って、斎藤は今度こそ踵を返したのだった。
「……どうゆうことだ?」
心の機微にも聡いはずの岩倉は、吏鶯を顧みる。頭では理解できた答えを、心がそれを否定していたからに違いない。
人が抱く闇が魔性を産み出しているなどと──己もまた、魔性に力を与えていたひとりなのだと、認めたくもないからだ。
「……まさか、そんな……」
口中でちいさく呟く吏鶯には、岩倉の声も、斎藤の想いも届いていなかった。
「残念なことよ」
斎藤の後ろ姿を見送っていた魔性は、せつなげに溜め息を漏らした。
「椿姫」
「気付いてしまったかえ?」
縋る想いで問い掛けた吏鶯に、悪戯が見つかり叱られる童女のように笑った。
「では、やはり……」
そして、二の次が出てこない吏鶯の身体を優しく抱き締める。
「そう、ヒトが抱く闇が晴れれば、妾も見えなくなる。寺の僧侶たちなどは、一度魅了から醒めた後は誰も妾を目に映しはせなんだ。それは、糧と成り得る闇が浅い為。……ましてや、糧がなければこの身を保つのも危うい。それが妖というものよ」
「椿姫っ」
吏鶯は力を込めて魔性を掻き抱く。
「……話し聞かせたことはなかったが、現世にこの身が具現したのは、今回が初めてではない」
にいっと笑う魔性の眼は、暗い深遠を映したかのような瞬きが宿っていた。その瞬きを間近で見下ろした吏鶯の背筋が凍り付く。
「ヒトの手によりこの地が拓かれてからは、時は移れど同じ場所で幾度となく乱が起きてきた。世が乱れる度にヒトの残留思念とも呼べる闇が濃くなり、この地に深く染み込んできた。この闇こそが妾のような妖を産み出しておる。ゆえに妾たちは人形を模す。しかし、この身を保つ闇がなくなれば淘汰される身でもある。消えてしまえば、己の意志で具現化できる訳ではないゆえに、次がいつかはわからぬ」
己の秘密を告白する魔性は、吏鶯の顔を見上げた。
「具現する度、気紛れでヒトを相手にしてきたが、所詮は糧。飢えて渇いていなければ、暇潰しの玩具でしかなかった。だが、そなたに二度と見つめてもらえないのは寂しいと、初めて感じてしまった」
吏鶯の頬を指で触れながら、魔性はゆったりと微笑んだ。
「貴女を生かす為ならば、喜んで闇を飼い慣らしましょう」
縋り付くように懇願する吏鶯の姿に、魔性の喉が鳴る。
「そなたが持つ闇は特別ゆえ、それは無理なこと。妖の妾を成人にしても尚晴れぬ闇は、その身に宿る皇の血に宿る闇のせい。そなたに宿る古き血脈は、千年にも及びこの地に根ざしてきたもの。土地に染み込む恩讐に最も影響を受けやすい業を持っておる」
そして、ふと柳眉を顰める。
「妾に関わらずとも、その身に宿る闇に沈むのは明らか。闇そのものの妾では、血脈の浄化は適わぬ。より強い闇の支配で追い払うことしかできぬ。だが、それも気休めでしかない。それに妾の支配を受け続ければ、死を早めてしまう。そなたがいるからこそ、今世に意味がある。そなたの死期を早めるのも、そなたのいない来世にも興味が持てぬ。だからこそ、妾を消滅させるだけの力を持つあの男に殺してもらおうとしたが、振られてしもうた」
悄然と肩を落とした魔性は、吏鶯の腕の中で苦笑う。
「……惚れた弱みかのう」
滲み出る笑顔の美しさに、吏鶯の表情が歪んだ。




