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「やれやれ、まだ素直に認めぬのか」
やや呆れた口調の声が、宙から降ってきた。
「そなたの甘言、手緩いのではないかえ?」
突如姿を現した魔性は、吏鶯ではなく岩倉の肩に手を添えて額を擦り付ける。
「言うな」
不機嫌そうに歪めた顔を、優雅に広げた扇で隠す。
「せっかく据え膳を用意してやったとゆうのに、この体たらく。有能と聞いて呆れるわ」
「言うなというのに」
くつくつと笑いを零す魔性と、既知の間柄のように言葉を交わし合う岩倉の姿に、吏鶯は言葉を失った。
「可哀想に。理解できていないようだよ」
吏鶯の表情に気付いた岩倉が、閉じた扇で示したのと同時に、ゆるりと首を巡らせた魔性がしたり顔で微笑んだ。
「そう、あれこそが妾の最も好む表情ぞ」
「……悪趣味にも程がある」
「そなたほどではなかろうに」
楽しげに言い返す魔性に、岩倉は心底嫌そうに顔を歪めた。
「そろそろ離れてくれないか?」
「相も変わらず、冷たい男よのう」
つまらなそうに鼻を鳴らした魔性は、重みを感じさせない足取りで吏鶯の傍へと辿り着く。そして白くほっそりとした指で、吏鶯の強張った頬を撫でた。
「ふふ、驚いたかえ?」
「……」
どれもこれも驚きと困惑で思考がついてこない。
「一体、いつから……」
岩倉と懇意にしていたのか?
言葉にならない吏鶯の問い掛けに、魔性は口端を上げた。
「そなたに会いにきた公家を、初めて見た時から」
「そんな……」
今にも泣き出しそうな吏鶯に、深く満足した魔性は、嫣然と微笑んだ。
「帰りしなにちょっかいを掛けてみたら、次の来訪から妾を退治しようと、色々画策してきたことがきっかけよな?」
魔性は岩倉を見やった。しかし岩倉は、魔性ではなく吏鶯の顔を見て溜め息をつく。
「彼の姫の忘れ形見である君を、みすみす妖の喰い物にされては目覚めが悪くなるからね」
「で、退治できないと悟ると、今度は手を組まないかと持ち掛けてきたのよ」
魔性は愉快げに喉を鳴らした。
「そなたの内に秘めた願いを引き出したほうに、そなたの所有権を持つとな」
「所有権とは聞き捨てられない。今後一切手を出さないという約だったはずだ」
憤然と反論する岩倉に、魔性は首を傾げる。
「言葉は違えど、意味は同じはず」
「……貴女は、私を誑かったのですか?」
途方もなく四肢の力が抜けてしまうのを必死に堪えながら、震える声音で訊ねた。
「誑かすとは、片腹痛いことを言う」
心外げに頬を膨らませる。
「そなたのことを、これ以上ないほどに愛おしいと想っておるのに」
吏鶯の目に動揺の色が浮かんだのを見た魔性は、たっぷりと微笑む。
「そなたを愛しておる」
思わぬ告白に、吏鶯の心は激しく揺さぶられた。
「……その言葉を信じてもいいのですか?」
「疑うのかえ?」
凶暴な笑みを浮かべる魔性に、吏鶯は子供のように首を振った。たった今、裏切りを知ったばかりだと言うのに、紡がれた言葉を疑いたくなかったのだ。
苦笑が漏れた。
疑いたくないと、己の心が訴えてくるなど、初めてのことだ。
「……私は、貴女の好意を受け取る資格を持たない身です」
頑なに目を逸らし続けてきたものが、ゆるゆると解けてゆく。
「己の出自を知った時から──いえ、物心ついた頃から存在意義を見出せずに、いっそのこと消えてしまいたいと、いつも思っていました。けれど、置かれた境遇に反抗するでもなく、定められた規律に乗っ取り、流されるままに日々を過ごしてきました」
そして吏鶯は、その秀麗な顔を苦しげに歪めた。
「……貴女と出逢い、これで無為に命を長らえることはないのだと、安堵しました。この身に卑しくも居座る迷いを根こそぎ刈り取ってしまうほどに圧倒的で、確実な死をもたらしてくれるだろうと期待していました。私は、……己が楽になりたいが為に、貴女を利用したのです」
「とうに知っておった」
最初から気付いていたと微笑む魔性に、吏鶯の表情が凍り付く。
「崇め畏れつつも、利己的に妾を見ていたことは、な」
これまでのことを思い返したのか、魔性は喉を鳴らした。
「そなたが胸の内に飼う闇の気配は、なんとも心地良い。なれど、その闇の中でさえ隠し通す真実の願いを引き出された時のそなたを思うと、更に虐めてみたいと思う」
「……私の感情を揺さぶり、蹂躙して喜ぶ貴女だと知っていますが、貴女が言う、私の隠された願いとは、先程した告白以上に何があると言うのですか?」
吏鶯の返答に柳眉を顰めた魔性は、幼子をあやすように微笑んできた。
「では問うが、妾に殺されることがそなたの願いか?」
頷いた吏鶯はしかし、戸惑ったように首を横に振る。
「……今までは、確かにそうでした。でも、今は解らなくなっています」
途方に暮れた顔をした吏鶯は、魔性の美しい顔を見つめた。
「貴女は私を殺すおつもりだったはずです」
「昔のことよ」
どこかばつの悪い顔をした魔性に、吏鶯はちいさく笑った。
「貴女を成人にした時、私はすべての精気を奪われて死んでいたはずなのです」
「そのつもりで事に及んだことは事実ゆえ、そなたの認識は間違っておらぬ」
「貴女を毎夜のごとく腕に抱いたことも、お食事として生気を与えたことも、本来は死んでいてもおかしくなったはずなのです」
「……それは、流石に加減していた」
その意外な返答に、吏鶯は目を見張った。
「いくらそなたとて、無尽蔵に精気がある訳がない。殺さぬよう、こちらで加減しておった。……物足りぬ時などは、花の蜜を吸って気を紛らしておったがな」
「……どうして、そこまでしてくださったのですか?」
「…………意地が悪いぞ」
ふつふつと沸き起こる温かな何かが、吏鶯の全身を──心の隙間を塞いでゆく。
「聞かせてください」
そう、吏鶯が懇願した時だった。
「いい加減にしてくれないか?」
苛立ちを帯びた岩倉の声が、甘い空気を裂いた。




