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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
四、 月下の告白
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 3

 身体を起こした吏鶯の視界に、驚愕の色を隠しきれていない岩倉の姿があった。

 早咲きの藪椿も混じる濃密な木々の気配と、凛とした肌を刺す冬の大気が、対峙するふたりを包み込む。

 一瞬で場所を移動する、魔性の操る不思議を、その身で体験した者は他に存在しないだろう。

「……これは、どうゆうことだね」

 扇を閉じて握るその手が微かに震えている。それを見た吏鶯の頬が緩んだ。

「貴方でも動揺することがあるのですね」

 からかいを含んだ吏鶯の視線から逃れるように周囲を見渡した岩倉は、顔をしかめる。

「ここは何処だね」

「境内の一角です。ただ、だいぶ奥に入った山腹付近ですが」

 肩をすくめて見せた吏鶯は、空を仰いで感嘆の溜め息を零した。

 星の瞬きが霞むほどに、皓々とした月が蒼天の夜空に浮かんでいた。うっすらと光の輪が月を囲んでいる。

「今宵は良い月ですね」

 吏鶯自身がまるで月の化身のごとく、冴え冴えとした瞬きを目に宿していた。

 そしてその目を岩倉へと移す。

「こうして真正面から、貴方と目を合わせるのは初めてです」

 強がりではない微笑みが口元で零れた。

「貴方の言葉に心惹かれたことは認めます」

「……ようやく本心を見せてくれる気になってくれたか」

 感慨深く頷く岩倉に、吏鶯は苦笑を漏らす。

「正直なところ心が揺れていました。……しかし、私は貴方を疑うことをやめられない。だから貴方と共に行くことはできません。これが答えです」

「何を疑う」

 心外とばかりに岩倉は声を張る。

「私は捨てられ子です。私を産んですぐに亡くなった母を除けば、父には顧みられず、貴方の手でこの寺に預けられ、育ての親である住職様からは個を不要がられ、公としての立場しかありませんでした。そして一度は手放した私に執着する貴方には、やはり私個人としてではなく、母の身代わりとして、皇としての私を求められる」

「……」

「仏の教えには個を律して他者への配慮をうたうものが多くあります。しかし、律っする個がもとより与えられていなかった私は、酷く空虚な入れ物でしかなかった。この身に許されたものは教えに生きること。ならばそうすることで辛うじて己を支えていました。時折、生きることが辛くて、死にたいと思うことが多々あったほどです」

 けれど、いくら死にたいと思っても、簡単には死ねないのが人の身体だった。

 どんなに己の身体を痛めつけ虐めても、痛みには敏感で、傷付けば自然治癒という名の生きる意志が顕れるのだ。

「私自身を求めてくれる者はいないなんて、……気付きたくもなかった」

「……身代わりで何が悪い」

 閉じた扇の先端を顎に付ける岩倉も、吏鶯に負けじと声音低く呟いた。

「真実、焦がれ求める者が既にこの世にいない私とて、報われることはない身の上。僅かでもその隙間を補え合える君と共に歩みたいと願うのは、それほどいけないことなのかい?」

「男とはごめんです」

 にべもなく言い放つ吏鶯に、岩倉はようやくいつもの笑みを浮かべた。

「おやおや、随分と即物的じゃないか。何も身体の関係を迫っている訳じゃないのに」

「そういった意味合いでもお断りします」

「そうだね。もし君が女の子だったら、物語にある光の君のごとく、紫の上として手放さなかっただろうね」

 くつくつと目を細めて笑う岩倉は、残念そうに呟いた。

「彼の姫の面影を宿した憎い男の血を受け継ぐ君を、夜な夜な陵辱できていたなら、もっと違う生き方が出来たかも知れない」

「……有り得ない妄想をしないで頂きたい」

「そうだ、現実は違う」

 途端に岩倉の目が光る。

「君もそろそろ現実に気付くことだな。いや、違うな。気付いているのに、気付いていない振りをしている」

 手間が掛かるとばかりに嘆息する岩倉に、吏鶯はたじろぐ。

「この世に平等などない」

 岩倉はふと、苦笑いを浮かべた。

「そうとも、この世の中は不平等だ。身分だけでなく、思想や教養にも偏りがありすぎる。誰しもが他者から望まれ、必要とされること自体、幻想の他ならない。だからこそ──すべてとは言えないが、より多くの可能性を広げられたら、私も必要とされる人間だと認められたことになり、多少なりとも気が晴れるというものだ」

「貴方の自己満足に巻き込まないでください」

「巻き込まれようよ。彼の姫の代わりは君にしかできない。……誰だっていい訳じゃないんだ。僕には君こそが必要なのだから」

 優雅に差し伸べられる手を、吏鶯は凝視する。

「それで私の気が引けるとでも?」

「引いてくれないのかい?」

 岩倉の顔と手を交互に見た吏鶯は、ゆるくかぶりを振る。

「この世にも等しく存在するものがあります」

「何だい?」

「わかりませんか?」

 首を傾げる岩倉に、吏鶯はちいさく笑った。

「万人に等しく訪れる死という終わりですよ」

「その考え方は建設的じゃないな」

 岩倉は薄く笑った。

「思っていた通り、君は卑屈で根暗だな」

「な……っ」

「なまじ妖が傍で纏わり憑いていたからか、その度合いに拍車が掛かったのかな」

 ふむ、と差し出していた手を顎に付け、思案げに溜め息をつく岩倉に、吏鶯はそれこそ化け物を見るかのような顔をする。

「……貴方は、彼女が恐ろしいとは思わないのですか?」

「解っていないな。最も恐ろしいのは人間の欲だよ。まぁ、いい。君が言う彼女がアレならば、私にとって他の人間と一緒だよ。そこに存在するだけだ。役に立つなら最大限に利用し、役に立たなければ──いや、邪魔をするようなら排除するまでだ」

 そう、こともなげに紡ぐ。その揺らぎもしない態度に、苛立ちに似た焦燥が込み上げてくる。

 このままでは、今まで目を逸らしてきたことを認めてしまいそうだ。

 これまで岩倉を知ろうとしてこなかったのは、一体何の為か。その存在を意図的に疎外することで保たれていた感情が溢れ出てしまう。

 ──この男の言動に類似点を見つけ、共感してしまうなどと。

 まるで岩倉という形を纏った、己自身の闇と対峙しているような居心地の悪さを感じるなんて、どうかしている。

 ふと、傍らを顧みる。

 最後の砦とばかりに、救いを求めたそこには、彼の魔性の姿はなかった。

「……っ、椿姫!?」

 思わず呼び慣れた愛称を叫ぶ。

 岩倉との対決に気を取られ、彼の魔性が離れた気配すら気付かなった己の失態に、吏鶯は愕然と目を見張った。

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