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「どうした吏鶯? 手が止まっている」
吏鶯の強張った頬に指を添えた少女は、小首を傾げた。
湯浴みの手伝いをしようと膝を付き、いつものように手を掛けた吏鶯は、着衣の乱れに改めて動揺し、そして衣を脱がせた瞬間目に飛び込んできたおぞましい痣に、怒りと恐怖に凍り付いたのだ。
少女から大人の女へと僅かに変化する身体に散らばる、赤く鬱血した無残な痕。いやらしく主張するそれを直視できないのは、神仏の顔へ唾を吐かれたのに等しい行為に怒りが湧いたのと同時に、人に害為す魑魅魍魎たちの報復の恐ろしさが襲ってきたからだ。
「ああ、この程度の痣などすぐ消える」
今頃気付いたその痕を、少女は特に恥ずかしがることもなく見下ろして言う。
その言葉通り、赤く鬱血した痣の色がみるみる内に薄くなり、元の白い肌へと治ってしまった。
「欲に駆られて妾に手を出したのなら、最後まで遂げる度胸がなければ。……最後の最後で逃げ出すとは情けない」
くつくつと喉を鳴らす少女に、吏鶯は重い口を開いた。
「──それは、貴女という個の違和感に、寸前で気が付いたのでしょう。……それまでは皆のように、ただ風変わりな娘とでしか認識していなったのですから」
痕の消えた身体を極力見ないまま、脱衣を手伝う手を再び動かし始めた吏鶯の顔を、少女は珍しげに見下ろしている。
これまで幾度となく眼前で不思議な事が起こっても──たとえそれが理解に苦しむ事であったとしても、事実を事実として受け入れてきた男は、少女に対して慎重に言葉を選んできた。
闇雲に正体を暴き立てることもなく、忠実に世話をし続けてきた男が、初めて少女の不可思議さを言及するのは、よほど先程の事に動揺したからなのだろう。
「風変わり、とな?」
意外げに目を見開くも、少女の声色は笑みで揺れている。
「──では、貴女の成長の早さを問う不敬を赦していただけますか?」
「不敬と言うからには、まず妾を敬わねばならぬと理解しておるのか?」
「足りませんか?」
打てば響くように紡がれた言葉に、ふっと鼻で笑った少女は、吏鶯の額を爪弾いて言った。
「そなたのそれは、敬っているとは言えぬ。だが、妾を畏怖するのはそなただけなのは確か。……そう言えば、妾を見つけ拾い上げたのもそなたであったな」
くつくつくつと笑い声を零し、少女は目を眇めた。
「妾の魅了の力が効かぬ訳でもないのに、こうして是非を問える厚顔な態度は、興味深くも好ましく思う」
にやりと、口端を吊り上げた少女は、足袋を脱がせ終わった吏鶯の右肩に己の両手を重ねた。
「未成熟なこの身では、日々増加する──否、戻りつつある力を御しきれぬようになってきてはいた。こちらの意図なく漏れ出た魅了の力に中たって、勝手に盛ってきた者を相手にするのも煩わしい。さて、どうしたら良いと思う?」
「……煩わしいとは、珍しく弱気なことをおっしゃる。退屈になると戯れに僧侶たちを魅了するだけして、手玉に取って楽しんでおられたはずですが」
「口酸っぱい男よのぅ」
皮肉を込めた吏鶯の反論に、やや鼻白んだ少女はちいさく嘆息した。
「否定はせぬ。しかし、飽いた」
少女が何を言わんとしているのか、吏鶯は腹に力を入れた。……無意識に。
「──ヒトのフリは飽いた」
恐れていた、しかし待ち望んでもいた言葉が降ってきた。
「……はい」
たくさんの感情が嵐となって、吏鶯の胸中を蹂躙する。思わず大声で喚きたくなるのを必死に抑え、一言呟くのが精一杯だった。
戦慄きそうになる唇を引き締めていた吏鶯の眼前が陰った。──肩に乗っていた少女の手に、確かな重みが加わる。
指ではない、そのやわらかな感触に、まるで雷に打たれたような衝撃が身体を貫いた。
浴室に充満する湯気に混じる蜜の香りが、いつしか花の洪水と錯覚する程の濃密さとなって、吏鶯の思考を鈍らせる。
嫣然と微笑む少女をぼんやりと見上げれば、──何故だろう。少女の顔立ちや身体の輪郭が、少し大人っぽくなっている。
脳裏では絶えず警鐘が鳴り響いてはいるが、安堵に近い歓喜が、身の内を満たしもしていた。
心なしか息をするのでさえ苦しく感じた少女の眼光が、ふいにやわらげられる。
「……これは重畳。思っておった以上ぞ」
見た目だけでなく、声音も大人びている。
少女は唇を舐めて満足げに微笑んだ。
「そなたがいれば、妾は成人になれるやも知れぬ」
「……成人、に?」
「そろそろこの姿から先の成長が見込めないと、感じていた矢先ではあった。ふふっ、ちょうど良い。そなたのような特異な気と精があれば、妾は晴れて成人になれる」
期待に満ちた表情で、少女はにっこりと微笑む。
「ごく稀にだが、体内に吸収し、練り込んだ気を外に発することができる者がおる。個々によって気質は違うが、妾に最も似合いの気質をしておるとは、何と言う僥倖。……確かに、そなたが持つ血脈の濃さを鑑みれば当然、否必然であったのやも知れぬ」
住職しか知らない、吏鶯の出自を仄めかす少女。
「あ、貴女は一体……」
言い淀む吏鶯に、少女は再び眼光を強めてきた。
美貌に凄絶さが加わり、唇が弧を描く瞬間でさえ、幻をみている錯覚さえできてしまう。
「真名は特別なもの。……だが、そなただけには教えようぞ」
じっと吏鶯の瞳の奥を覗き込む少女の、赤く艶やかな唇が真実の名を結ぶ。
『燕君』、と。
瞬間、深紅の藪椿が脳裏に浮かび上がり、真名が吏鶯の胆中にずっしりと収まった。
──気高き野生の椿の化身。
「そなた、妾がほしくはないかえ?」
吏鶯の腕を取り、己の首に回させた少女が耳元で囁く。その甘く麗しい唇から視線が外せなくなる。
──魔性の者に対する畏怖よりも早く、吏鶯の脳裏に蘇った警告の言葉があった。
『恋心を抱いても慕うことなかれ』
いつかの日に言われたこの言葉は、若く眉目秀麗な吏鶯に投げ掛けられた戒め。
僧侶という立場以上に、吏鶯の出自に関わる秘密ゆえに──。
あの時の自分は、どう答えていたのだろうか?
そんな吏鶯の胸中を知っているのか、少女はくすりとひとつ笑った。
「妾よりもヒトが創作した信仰を選ぶか?」
再び肩に乗る少女の手に重みが増すと、吏鶯の唇にやわらかな感触が重なった。
先程の触れるだけだった軽いものではなく、焦らすようにゆっくりと舌で唇の内側を舐めて吸う、濃密なくちづけ。
(……この、根こそぎ奪われてゆく感じは──)
吏鶯の身体が魂ごと震えた。
くすくすくすくす……
噎せ返る程に濃厚な蜜の香りが甘く漂い、媚薬のように吏鶯のすべてを包み込む。あたかも花の蜜に群がる蟲のように、少女のしなやかな肢体に溺れた。
背徳の念を抱きながらも、吏鶯は己から少女の唇を塞ぐ。
歓喜でなのか、それとも畏れからなのか、吏鶯は吼えた。
無色透明な涙を零す吏鶯を、少女は目を細めて見上げていた。
その口元にちいさな笑みを浮かべながら──。