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「住職様には厚く御礼申し上げねばなりませんね」
満足げに微笑む公家に対し、骨と皮が目に痛いほど浮き上がっている老齢の住職の顔は、どこか暗く沈んでいた。
「貴方様から寄せられる多額のお布施にこそ、御礼を申し上げたく存じます」
「それには及びません。何より皇の落胤だと他者に悟らせることなく、また素晴らしく優秀な若者へと導いた住職様のお力には、脱帽ものですよ」
最初の内こそ、いっそどうにでもなれとばかりに、捨てるつもりで寺に預けた赤子が、いつの間にか目を見張るほどの聡明さに成長していたことは、公家にとって嬉しい誤算でもあった。しかし、今や宮中──いや日本中で一番影響力を持つ男からの嘘偽りのない最大の讃辞にも、住職の顔に喜色は浮かばなかった。
「いかがなされた?」
高齢故の血色の悪さばかりかと思っていた公家が、ふと訝しげに眉を寄せる。
「……岩倉様は、吏鶯を皇に据えられるおつもりでしょうか?」
「無論、そのつもりです。彼にその資格があるからこそ、成し得ることですからね」
ぱらりと扇を広げた公家──岩倉具視の目に光が瞬いた。
「彼にその器がない、とでもおっしゃりたいのでしょうか?」
「いいえ、吏鶯の人柄や能力に問題は感じません。ただ……」
「ただ?」
「吏鶯は皇の位を望んでいるでしょうか」
俗世と隔離した仏道を歩む──それこそ高齢だからこそ滲み出た萎れた発言に、一瞬苛立った心が凪いだ岩倉は、溢れ出る嘲笑を扇で隠した。
「人の心を説く、仏法の長とは思えない御言葉ですね」
「……吏鶯が物心つく前から傍にいたからこそ、感じることです」
「では、貴方は彼に何かしてあげられますか? いえ、してあげていましたか?」
苛立ちの含む強い口調に、住職のちいさな身体が震えた。
「複雑な出生の為、親の顔を知らす、受けるべき愛情もなく育ち、戒律に縛られ、自我を押さえ付けられていた者の想いはひとつです」
岩倉は確信を込めて微笑んだ。
「広い世界で己の力を試したい。即ち、己という存在を誰かに認められたいという欲です」
「……欲、ですか」
唖然とした顔の住職が、力なく呟く。
「ええ。残念なことに、人はひとりでは生きてゆくことができません。どうしても他者との繋がりが生まれ、続いてゆく。ある程度は選べる相手であっても、様々なしがらみで付き合わねばならない場合もあります」
柳眉を顰めて苦笑を滲ませるなど、万事がすべて思うがまま進めさせる権限と意志の強さを持つ岩倉に似つかわしくない、弱い面が覗いた。
「相手から好く想われたい。相手から必要とされたい、みとめられたい。それこそが人として生きる上で避けては通れない真実だと思いますが?」
「それは……」
小難しい説法合戦であれば負ける気はしない住職でさえ、公家の放つ簡潔にして明瞭な言葉に反論が出来なかった。
「私ならば、彼の半身として傍にいることができる。彼を導き、補え合うことができる。彼を見出し、彼を必要とする場所を提供できるのは、私の他いません」
「ですがもう既に、中山前大納言で養育されていた祐宮様が皇位を継承されたはずでは?」
「継承の為の儀式は、まだ執り行われておりません」
ということは、いまだ皇位が空席ということだ。
「祐宮様はまだ御歳十四という若さ。十九歳の兄君がおわすことを密かにお話したところ、殊の外お喜びになられ、早く兄君のお姿を御覧になりたいと、宮中で御待ちです」
「なんと! 歳若い祐宮様に、重大なる禁秘を御伝えしてしまったと!」
非難色の濃い悲鳴に動揺することもなく、岩倉はゆったりと微笑む。
「祐宮様もまた、重圧に苦しまれる御方。同じ血を持つ親族に会いたいと思われるのも、至極当然の欲と申し上げましょうか……。何とも微笑ましいことに、私から伝え聞く兄君の人となりを感じ入ってくださったようで、皇位も是非兄君にと仰せになられました」
そう言って尚も微笑み続けている岩倉の目は笑っていない。
もし祐宮が、秘密にされていた異母兄を拒否したならば、もう一度宮中で暗殺の噂が立っていたのかも知れない。そんな不謹慎で凶悪な喩えが浮かんでしまうほど、岩倉の目は底なしに暗かった。
「何とも愛すべき心根の素直な御方で良かったと、心から安堵しているのですよ」
扇で隠しきれていない口元が、冷酷に歪む。
「……貴方が御自分にとても自信が御有りなのは解りました。しかし、貴方の物差しで吏鶯のすべてを正しく量れますか?」
どこかやるせない表情をした住職は、ゆっくりと噛み締めるかのように言葉を紡いでゆく。
「ええ、大部分は貴方の御指摘通りなのでしょう。しかし、吏鶯はそつなく物事をこなす器用さがあり、己よりも相手を優先させる心根の優しい子です。ただ、他者と一線を引き、自身のことを諦めている節があります。……それが生みの親の愛情を受けなかった所以なのでしょうか。早くに出自を教えた頃から我が儘を零さず、誰かを羨み妬むこともなく育ってきました。もしかしたら、生きることすら諦め──」
あるはずもない苦痛に歪む顔に、ふと風を受けた住職が面を上げた。
「吏鶯っ」
僅かに開いた障子戸から覗く吏鶯の暗い顔は、幽鬼のごとく青白かった。
「ああ、待ちくたびれたよ」
絶句する住職を尻目に、早々に席を立った岩倉は、障子戸を自ら開け、吏鶯を室内に招き入れる。だが、吏鶯にしなだれかかる魔性を見て、初めて不愉快そうに顔を歪めた。
(──ああ、なんだ。やっぱり見えていたのか)
岩倉の視線の動き、そして露わにした表情から納得した吏鶯は、これまで眉ひとつ動かさず椿姫の行動を見て見ぬ振りをしていたのだと気付き、その厚顔さに呆れながらも感心してしまう。
岩倉が何か言葉を発する前に、吏鶯は先んじて声を掛けた。それもいまだに茫然とする住職や眼前の公家にではなく、傍らに侍る魔性に対して。
「連れて行くのは彼だけで充分です」
「……つまらぬな。だが、吏鶯の願いゆえ、仕方がない」
「ありがとうございます」
やや不満げに愚痴を零した魔性は、ついと指を宙を泳がせた。
視界が霞む一瞬の間に、吏鶯は部屋の奥に座る住職に向かって深く礼をとる。
(……貴方にそこまで見守られていたなんて知らなかった)
一僧侶としてでしか、扱ってくれなかった育ての親。優しい言葉もなく、日々の辛い修業と戒律のある暮らしの中、たまに声を掛けられる時は諫言と決まっていた。
だがその裏で、内に潜む想いを見抜かれていたとは──。
嬉しいという熱い思いが込み上がるのと同時に、何故少しでも態度や言葉で示してくれなかったのかと、詰りたい思いが交差する。
けれど、それも一瞬のこと。
我ながら薄情だと苦笑が零れたほど、決別はあっさりしたものだった。




