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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
四、 月下の告白
38/47

 1

短いです。

 まもなく陽が沈む。空には既に白い月が浮かんでいた。肌に触れる大気も冷気を帯び、日増しに冬の気配が濃くなっているようだ。

 滲む夕陽が寺を囲む樹木たちを、燃えるような色合いに染め上げる。けれど刻々と弱々しくなる残照で紅葉の鮮やかさが褪せてゆくのだが、蒼く深みを増す暗闇に沈みゆくことで淫靡な色へと変貌する。そして最後は静寂の中、白かった月が徐々に淡い光を纏い始めるのだ。

 一言も発せず庭の移りゆく情景を眺めていた吏鶯は、思いの外冷えた自身の身体に気付き、それほど無心に庭を眺めていたことに驚く。そして、唐突に何かが足りないと感じた。否、恋しくなったと言うべきか。

(……そうだ、椿姫のぬくもりだ)

 あの匂やかな気配が傍にないだけで、飢餓感を抱くほどに馴染んでしまっていることに、再度驚く。

 畏怖そのものを具現化した存在に対して、恐れ多くも気安さを感じてしまうとは──。

 そっと苦笑を浮かべようとした瞬間、急に肌が粟立った。

 無意識に己の身体を抱き締め、まるで戒めるかなように胸中で呟く。

(彼の姫は、人と異なる理で生きる存在。脆弱な私の命など容易く刈り取ってしまえる力を有する怖ろしき魔性だ。人の身で抵抗して叶う相手では……)


 ──だったら何故?


 押さえ込んでいた本音がふいに溢れ出し、己を笑った。


 ──あの時、盲目なまでに心酔した畏怖を、今は抱いていないのか?


 肌の粟立ちは一向に収まらない。


 ──代わりに抱くのは、失望ではないのか?


 脳裏に公家の嘲笑が木霊する。

(……違う、そうじゃない)

 公家の姿を象った利己的な闇を、吏鶯は慌てて深遠に沈めた。

(あの男とは決して重ならない)

 だが、吏鶯のささやかな願いは霧散することになる。

 自室に戻った間際から、部屋の外が騒がしくなった。規律を守った──だが、どこかせわしない足踏みの音が、吏鶯の部屋に近付いてくる。

「吏鶯、そこにいるか? 住職様がお呼びだ。お前に客人だそうだ」

 誰何すいかもそこそこに障子戸を開けた仲間の興奮気味な声が、吏鶯の身体を強張らせた。

「なんだ、いるなら返事をしたらどうだ?」

 許可もなく部屋に踏み込んできたことを棚に上げ、矢継ぎ早に言を紡ぎ出す。

「それよりも、お前の客人だという公家が菊紋の付いた駕籠を連れて来ているんだが、どんな関係だ?」

 興味津々といったていで訊ねてくる仲間に、吏鶯は答えることが出来なかった。

「吏鶯?」

 余程顔色が悪く見えたようで、仲間の僧侶は怪訝な顔付きになる。

「……わかった。すぐに参るとお伝えしてくれ」

「あ、ああ。すぐ来いよ?」

 いつもとは違う様子を見せる吏鶯に、声を掛けた僧侶は好奇心を持て余した顔で障子戸を閉じる。それを見届けた吏鶯は、片手で顔を覆った。

 有り得ないほど心拍が激しい。

(……何故、放っておいてくれないのだろう)

 感情をいとも容易く掻き乱す公家の存在が、酷く煩わしかった。

 いつもなら目立たぬように、夜も更けた頃にやって来る彼が、陽も暮れたばかりの時刻に、よりにもよって菊紋をあしらった駕籠まで用意してきたのだ。

 もう吏鶯に逃げ場がないに等しかった。


「ヒトとは不思議な生き物よのう」


 くすりと微笑む気配に気付かない吏鶯ではない。

「椿姫?」

 見上げた先には、小首を傾げて佇む魔性がいた。

「脆弱でちいさな器だというのに、内に潜む感情の多さよ。それも相反する感情を抱き、思考や思想、または願いによってその形を変え、より複雑に絡まり合って自身を縛り付ける」

 しげしげと吏鶯を見下ろし、愉快げに喉を鳴らす。

「妾のような妖者あやかしとは違い、人間のなんと欲深きことよ」

 遥か高みから蔑まれている感覚に襲われ、吏鶯の背筋が凍り付く。

 あれだけ肌を重ねてきたことが嘘のように──否、改めて感じ取る魔性の凶暴な存在感に、恐怖と畏怖が全身を駆け巡る。そして、安堵もする。これで救われるのだとも思った。

「吏鶯や」

 その厳格な声音に、呼吸も忘れて聞き入る。

「そなたは何を望む?」

 優美な指先が吏鶯の顎を捕らえ、仰向けさせる。

「妾の真名を紡ぐのを許す」

 さあ、と腰を屈めて顔を覗き込んできた魔性の美しさが、吏鶯の闇を照らした。


 『燕君えんき


 縋るような震える声で乗せられた真名に、魔性は嫣然と微笑んだのだった。 


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