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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
参、 御陵衛士
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 10

残酷描写、流血描写があります。

「重々肝に命ずるよ」

 おおきく何度も頷く三浦に、斎藤は胸中でほっと安堵する。

(こうも的確に言い当てられると、尻がむず痒いな)

 たとえ会津公の顔を潰すことになろうとも、あのまま問答が続けば、三浦を斬ってしまっていたはずだ。

 何故だか今宵は感覚が鋭くなっている。腹の底がやけに熱を帯びるのは、微量とはいえ酒を摂取したせいなのだろうか。

 利き手もむず痒く、無性に人を斬り付けたい衝動が沸き起こり、それを抑え込むのに手間取っている。

(……駄目だ、落ち着かない)

「何だか顔色が悪いよ?」

 恐る恐る斎藤の顔を覗き込んできた三浦が、気遣わしげに声を潜めた。

「……すみません。少し、外を歩いてきても良いでしょうか?」

「それは構わないけど」

「私が戻るまでの一時、散らばった警護を集めて、貴方の身辺を固めます」

 斎藤の提案に嫌そうな顔をする三浦に、斎藤は薄く笑い掛けた。

「貴方が挑発してくれたおかげで、無性に人が斬りたくて仕方がないんです。外の冷たい空気を吸って、頭を冷やしたい。……よろしいですか?」

 三浦は息を飲んだまま、首を縦に何度も振る。

「では、おとなしくしておいてください」

 首がもげそうになるほどの勢いで頷く三浦に、斎藤はこっそりと笑みを浮かべたのだった。


(あれだけ脅しておけば大丈夫だろう)

 月下に降り出た斎藤の足は、自然と油小路へと向かっていた。青白い月明かりに照らされて出来た影が、細く長く伸びている。

 ──もう既に血闘は終わっているのかも知れない。

 暗雲とした重い気分が胸中に広がってゆく。

(……それでも、見届けなければならない)

 ──そう、あの時もそうしたから。

 夜も更けた大雨の中、傘も差さずに息を潜めて、じっと動かず見ていた。

 強い雨音混じりに聞こえてきた剣撃の音、続く肉を貫く鈍い音。そして、襲撃者たちと襲撃された者たちの声、声。

 破れた雨戸から見えた閃く銀の蛇が、今も目を閉じれば見えてくる。


「俺は一度死んでいるんだ。だからこれからは思う通りに生きてやる」

 小指を噛み千切り、辞世の句を詠んだ天狗党時代を思い出し、第一関節のない自身の指先を眺めながら呟いた男の言葉。

 いつも酒の匂いを身に纏い、辞世にも詠んだ花の名前を持つ女を侍らせ、時折どこか遠くを見ていた男の姿。


「どうして大津までしか逃げなかったって? ……笑わないでくれよ。一度京を出て、新鮮な空気を吸ってみたかっただけなんだ。でも、そうだね。……どこにいても、案外変わらないものなんだと、気付かされたよ」

 皆が見守る中、死に装束姿で小刀を持ち、ひっそりと微笑んだ学者肌の男の言葉。

 いつもどんな感情の時でも微笑みだけは絶えず湛えていた男の姿。

 土方が鬼なら男は仏と呼ばれ、表裏釣り合いの取れていた間柄だったはずが、芹沢粛清後、奥へと引き籠もりがちになった真っ直ぐな正義感を持った男の葛藤は、いかほどのものだったのか──。


 つらつらと回想しながら歩いていた斎藤の鼻腔に、血の匂いが流れ込んできた。

 ぎくりとして、歩みをとめる。

(永倉と原田が率いた部下を三方さんぽうに配置し、衛士たちを待ち伏せて斬り付ける手筈だったが……)

 そっと通りを覗いた斎藤の目に、月に照らされた惨劇の現場が飛び込んできた。

 永倉たちは既に引き上げている。だが、死体検視に役人が出張ってきていないところを見ると、ついさっきまで血闘が繰り広げられていたということだ。

 斎藤の足が動く。

(──服部に、毛内……)

 服部は民家の門柱を背に、斜め半分に斬られた提灯を腰に差したまま事切れていた。

 肩から頭、肩から両腕と、満身創痍な身体で、全身が流血で真っ赤に染まっていた。だが、それでも平然とした顔付きで、両手には刀を握り締めている。毛内も服部の近くにたおれており、無数の傷と血を見れば、凄まじい血闘の様子が容易に想像できた。

(……やはり服部は鎖を着込んできたのか)

 ふいに、月心院で交わしたやり取りを思い出す。

 いついかなる時の襲来に備え、鎖帷子くさりかたびらを着込んだらどうか。いや、それだといざという時に動きが鈍る。なら、使い慣れた剣を抱いて寝よう。

 でもそうすると利き手が痺れてしまって使い物にならないから、利き手ではないほうを下にして寝てみたらどうか。

 それよりも刀には鍔があり、抱いて寝るには支障があるから、いっそのこと鍔を取り払ってしまおう──などと、新選組から分離したての頃、いつ諸手を挙げて粛清されるか気が気ではなかった為、大真面目に議論を交わしたことがあった。

 今回罠だと知りつつも、伊東の遺体を引き取る際、敢えて大仰な武装をして来なかった面々の中で、用心深い服部だけは頑として武装を固持したのだろうと、ぼんやりと思い至る。

 知らず苦笑が零れた。

 淡い思い出を振り返るには、あまりにも凄惨な現実が斎藤の眼前に広がっているのだ。

 ──今宵の月は異常なほどに、皓々と現場を照らしている。

 足元を見下ろせば、血痕と共に幾つかの指がぱらぱらと散らばり、民家の雨樋あまどいには髪が付いた頭皮の一部がべったりと付いているのが見て取れた。

(……藤堂、おまえ──)

 藤堂の遺体を愕然と見下ろす。

 溝の中に仰向けで倒れ込んでいる姿が信じられなかった。

(永倉や原田がいたはずだが、何故?)

 十数ヶ所の傷が一様に見て取れただけでなく、細い溝の中は藤堂の流した血で溢れていた。

 割り切れない想いが募り、ゆるくかぶりを振る。そして、振り切るように歩を進めた斎藤の足は、再び地表に縫い止められてしまう。

(伊東、先生……)

 駕籠の中で後ろにもたれ掛かった伊東の姿があった。

 肩から半身が駕籠からはみ出ており、洒落た仙台平の袴が血で染まり、寒々とした夜空の下で長時間放置されていた為、ぱりぱりに凍っている。

 役者のような顔がいやに白く、幽鬼のごとく強張っていた。

(解っていたことだ。何を今更……)

 伊東の遺体から目を背けるように硬く目蓋を閉じ、唇の端を噛み締める。無意識に腰元の剣の柄を握り締めていたようだった。

 強く握っていた為、指を広げるのに手間取ってしまったが、何とか解きほぐすことができた。だが、解きほぐされたのは、何も手だけではなかった。はたっ、と水滴が頬に降ってきた。

 知らず込み上げてきた涙が、やけに熱い。

 きびすを返した足で、斎藤は向かう。

(……少なくとも彼の地ならば、確実にひとつの答えがでる)


 ──『生』か『死』か。


 月光に照らされたその身は抜き身の刀身のごとく研ぎ澄まされ、歩むごとに大気を切り裂いてゆく。

 目には涙の代わりに鋭利な月の光が宿り、深々と瞬いていた。

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