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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
参、 御陵衛士
36/47

 9

長くなったので区切ります。

 いい月がでていた。

 星の光も霞むほどにおおきな月が、下界を青白く染め上げている。

(今宵、御陵衛士は崩壊する)

 重く暗い想いが、斎藤の胸を締め付ける。

 窓の桟に半身を預けるように腰掛け、剣を抱え込む格好で月を仰ぐ。たったひとりで闇夜を皓々《こうこう》と照らす月から目が離せなかった。

「今宵は冷えるな」

 盃と徳利を持った紀州藩の公用人である三浦久太郎が、気安く斎藤の向かいに座り込んだ。

「三浦さん、外から丸見えだ。奥に戻ってください」

「堅いこと言うな。せっかくの月夜だ」

 三浦は幾分酔った顔で、にやっと笑った。

 先日、坂本龍馬と中岡慎太郎の両名が何者かに暗殺されたばかりだというのに、大胆な振る舞いが何かと目について仕方がない。

(困ったお人だな)

 警護されている自覚がまったくない三浦の扱いに、斎藤は手を焼いていた。

 そもそもいまだに坂本たちを暗殺した下手人がはっきりしないことで、数々の噂が巷で飛び交っているのだ。

 京都は勿論、薩長や土佐など幅広い活動拠点を持ち、数多あまたの勤皇志士たちの原動力としてその名を轟かせ、不逞浪士を取り締まる新選組からもお尋ね者扱いをされていた男が暗殺されたのだ。

 寺田屋で同心どうしんを射殺した報復のせいだとか、新選組の仕業だとか、次の政府を画策する倒幕派たちが、大政奉還の影の立案者たる坂本が、慶喜を中心とした新政府案を疎んじた仕業だとか噂されていた。

 その中には、土佐藩海援隊の汽船と紀州藩の汽船が備後びんごともの津沖で濃霧の為に衝突した事件を挙げる者もいた。

 七万両もの多額な賠償金を巻き取られただけでなく、紀州藩を誹謗する歌を広められて世論から白い目を向けられたり、御三家の威光が丸潰れにされた紀州藩士の怨恨は相当根強い為に、坂本暗殺は紀州藩の行いなのだと、噂は様々だった。

 この三浦久太郎は、紀州藩随一の切れ者として名を馳せており、先の賠償云々の交渉にも深く関わっていた。それ故に、坂本への怨恨は人一倍強いだろうと、坂本を慕っていた一党に命を狙われていた。

 そうした経緯があり、幾度となく将軍を輩出した紀州藩が、京都に潜伏する三浦の警護を、将軍家の縁戚でもある会津藩に依頼したのだ。

 そこで京都守護職に就く容保は、剣客集団でもある新選組の近藤局長に人選を任したことが、ここ油小路花屋町の天満屋で、斎藤を含む数人で三浦の警護についている理由だった。

 物々しいことが嫌いだと言う三浦の為、宿外の表裏と階段付近、今いる部屋の隣にそれぞれ人を配置し、一番腕の立つ斎藤が三浦の傍に控えていた。

「なんだか浮かない顔だね」

 滅多に表情を変えない斎藤の微妙な揺れに、つい二、三日前に初めて顔を見合わせた三浦が気付く。

(流石に藩屈指の才物。俺のことを良く見ている)

 人に気付かせる為の──いわば作り物の感情ではない素の斎藤を看破できる者は、新選組の中でも指五本にも満たないだろう。それとは気付かない斎藤の感情の揺れを見抜く三浦の観察力と洞察力に、内心舌を巻いた。

 斎藤の返事がないことに苛立つことなく、三浦はのんびりと手酌で酒をあおる。見かねた斎藤が徳利に手を伸ばすと、やんわりと断ってきた。

「会津藩主から直々に名指しされるほどの男が、何に憂えているのか興味があってね」

 そう、実のところ今回の護衛要員に、容保公から名指しされていた斎藤は、警戒心を宿した目で三浦を見やった。

 三浦は斎藤の顔も見ず、手酌を繰り返しては、澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げていた。そしてふと頬を緩めた三浦は、悪戯っぽい微笑を浮かべて斎藤を顧みた。

「ああ、今宵は醒ヶさめがいの辺りが騒がしいようだ」

 醒ヶ井とは、近藤の妾宅のあるところだ。西本願寺から歩いてすぐのところでもある。三浦が指摘した通り、今宵の彼の地に伊東を招いて酒宴を開き、暗殺を実行しているはずなのだ。

 新選組の中でも極一部でしか知らされていない機密を暗に仄めかす三浦に対して、斎藤の首筋の産毛が逆立つ。

「一度は身を置いた組織に未練は?」

「……未練も何も」

「もともと間者として潜入していたから、愛着はないって?」

 くつくつと喉を鳴らす意地悪な笑い声に、斎藤の眼差しに険が宿る。

「ならば御陵衛士も、新選組も、君にとって変わりはないのかな?」

「三浦さん」

「だって君、会津の隠し目付けって、本当なのかい?」

「三浦さん」

 あからさまな殺気を身に纏う斎藤に、三浦は大胆不敵に笑う。

「流石に凄い迫力だな。怖い、怖い」

 人斬り集団で随一と一目置かれている斎藤の眼光に、三浦は大仰に首を竦めて舌を出した。

 会津藩主の息が掛かった者であれば、どんなに挑発しても己を身の安全は確証されているのだから、斎藤の殺気はしんぞうに悪い、ただの脅しだと高を括っていた。しかし、地を這うような低い声音に、三浦の背筋が凍った。

「あまり余計なことは言わないほうが身の為ですよ」

 斎藤の全身から溢れ出す静かな怒りが、見えない刃となって三浦の肌を冷たく刺した。

「坂本党に襲われる前に、私がうっかり殺してしまいそうですから」

「……言うね」

 三浦は事の重大さに蒼くなる。会津藩に忠実な品行方正な影かと、斎藤を軽んじていた三浦だったが、己の認識が間違っていたことに気付かされたのだ。

 壬生狼みぶろと呼ばれるほどに荒々しい集団の中で、幹部として在籍できる剣の腕だけでなく、内に潜む矜持の高さとも呼べる野生の牙を垣間見た三浦は、喉が干上がるのを感じた。

 これまで幾つかの困難を海千山千と乗り越えてきた三浦だが、直接な生命の危機に対しては赤子も同然。武士の嗜みとして剣は使えるが、斬り合うことに慣れた達人である斎藤との差は歴然としている。

 腹の探り合い、化かし合いにはけていても、命のやり取りは不慣れであった。

「そ、そうだ、仲直りの酒を交わそうじゃないか」

「酒を飲むと、無性に人を斬りたくなる私とですか?」

「うっ、それは嫌だな」

 それでも、酒の入った盃を差し出した手を引っ込めることも出来ず、しゅんと項垂うなだれる三浦から盃を奪い取った斎藤は、意地悪く笑った。

「冗談です」

 そう言って盃の中身をあおった。

「これでこの話はなかったことにしてください」

 突き返した盃を受け取る三浦の手から、徳利を奪い取った斎藤は、空盃に酒を注いだ。

 満たされた盃と底冷えする眼光を湛えた斎藤の顔を交互に見比べた三浦は、観念して自身も一息に酒を飲み干した。

「また同じことがあれば、容赦しませんよ」

 奪った徳利を三浦に突き返した斎藤は、念を押す。


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