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残酷描写、流血描写があります。
「伊東先生と政局を語らう機会がめっきり減り、かなり寂しく思っていたところです。今宵はじっくりと伊東先生の御高説を賜りたい」
「ふふっ、嬉しいことを。相変わらず近藤氏は、私を良い気分にさせることがお上手だ」
目を潤ませて見つめてくる、がっしりとした体躯の近藤は、まるで主人に懐く忠実な大型犬のようでいて微笑ましい。
分離後──否、茨木たちの脱走事件以後、近藤が自身の妾宅で開く酒宴に初めて出向いた伊東は、久しぶりに受ける近藤の歓待に気分が高揚としていた。
先日出奔した斎藤を思えば、たったひとりでの参加は危険だと、もしくは罠だと言い張る衛士たちを宥めてやってきたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
斎藤に間者として存在を把握していた用達の男が、処分されずに近藤の世話をしていることからも解るように、密告はなかったのだろう。
だが、今宵の酒が甘く感じるのは、それだけではなかった。
良く見知った懐かしい面々が「伊東先生、伊東先生」と、次々に酒を持ってきては話し掛けてくるのだ。それも満面の笑顔で。あの、暗くて嫌味な土方ですら、滅多に見せない微笑を浮かべて伊東を歓迎してくれる。
よもや己が近藤たちの暗殺を企てていることすら気付きもしない彼らの熱烈な歓待振りに、皮肉めいた優越感が満たされ、あまりの居心地の良さに酒の量も増えてゆく。僅かにあった伊東の警戒心も蕩ていった。
不意に、背中と腹に衝撃と熱い痛みが走る。
嫌な予感と不安が募り、無意識にひとりの男の姿を探すが、見つからない。
「……謀りおったな、土方」
中腰で傍らの刀に手を伸ばした伊東の口元から、細い血筋が流れ落ちてゆく。
だが、伊達に江戸にいた頃、深川で道場主として五百を超える門弟を抱え、凄腕の使い手として名を馳せていた伊東は、背後に立つ土方を振り返り、睨み付けた。
対する土方は、冷酷な笑みを浮かべて伊東を見下ろしていた。
「先生、お覚悟を!」
土方が伊東の身体に突き立てていた剣を無造作に引き抜いたのを合図に、伊東の馬丁をしていた男が斬り掛かってきた。だが伊東は、稲妻のごとく抜刀し、男を薙払う。
「ぎゃっ、ああっ!」
腿から脇腹へと斜めに走る刀傷を負った男は横倒しとなり、焼け付く痛みでひぃひぃと喚き出す。それを歯牙にも掛けずに立ち上がった伊東は、ふらつきながらもぎらぎらした目で土方を睨み付け、刀を構えた。
「やれ」
土方の冷徹な一言に、四、五人もの男たちが、無言で伊東の身体に刀身を埋める。
「……な、この、奸賊ど、も……」
大量の血を口から噴き出した伊東は、刀を取り落とし、己もまた膝から崩れ倒れ込んだ。
そこへ暗殺が飯より好きだと言って憚らない大石が、何度も死骸に刀を突き立てる。肉を刺す独特の重い音と、狂気に染まった大石の姿に、周囲の人間が顔を歪めた時だった。
「もうやめるんだ」
それまで座したまま、姿勢を崩さなかった近藤が制止の声を発した。近藤の右頬にまで伊東の返り血が飛んでいたのだが、膝の上にある両拳は硬く握られたままだった。
渋々身体を引いた大石は、もう虫の息だった元馬丁の男に止めを刺すと、介抱していた隊士が挙げた非難声もどこ吹く風と無視し、刀身に付いた血糊を振り払い鞘に収め、軽く近藤に頭を下げる。
だが、いまだその目に暗い焔がくすぶっているのが見て取れた近藤は、深い嘆息を漏らした。
「手筈通り、油小路に捨て置くように」
「ああ、後は任せろ」
硬い声音の近藤に、土方は苦笑しながら宥めるように言を紡ぐ。それに応えるように、近藤も薄く笑った。
「……一度はお互いの手を取り合い、同じ夢を求めていた同士を、こうゆう形で終わらせることしかできないなんて……嫌なものだな」
斃れた伊東の顔を、近くにいながら遠くから眺めているかのように目を細めて見つめた。
どこか仄暗い微笑みを薄く貼り付ける近藤に、土方は何かを言いかけてやめる。次いでちいさな嘆息をつくと、いつもの鋭利な眼差しで周囲を見渡した。
「吉村、町方に走って御陵衛士どもを誘い出してこい」
「はい」
「山崎と原田は、さっそくこの死体を置いてこい」
「はい」
「おう」
矢継ぎ早に指示を飛ばす土方は、事切れた伊東を見下ろした。
「さて、伊東先生にはもう一幕演じてもらおうか」
そう呟いて、意地悪く微笑んだのだった。




