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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
参、 御陵衛士
33/47

 6

 一段と緊迫感の募る御陵衛士たちの中、斎藤はそろそろ潮時かと腹を括った。

 近藤勇暗殺計画を実行しようと、伊東たちが動き出したからだ。

(その手掛かりが、よりにもよって藤堂だったとは……)

 兼ねてから藤堂が繋ぎを絶やさずにいた件の用達の男は、伊東派の間者であることが判明した。また、薩摩藩との繋がりが深い伊東から、先だっての倒幕挙兵の混乱に乗じて、新選組幹部の暗殺計画を知らされたこともそのひとつ。将軍慶喜公の大政奉還という荒業で、一度は頓挫してしまったのだが、再度計画が練り直されたのだ。

 大政奉還以前より、会津藩の隠密である紺乃と会う度、世情が急激に動いていることを実感していた斎藤は、自身の諜報活動の終わりを予期してもいた。

 当初、外出の多さに危惧と警戒をされていたことが嘘のように、御陵衛士に馴染んだ斎藤は、ちいさな溜め息を吐いた。

(このままだと俺は、壊滅した新選組の残党の矢面に立たされそうだな)

 囲う女と会う度に公金を持ち出していることは、既に気付かれているだろう。流石に監察の山崎や隠密の紺乃と密かに会う為の芝居だと見破られてはいないだろうが、新選組にいた頃の斎藤が持っていた厳格さはすっかり失われているに違いなかった。

 弱味を握り、彼らの警戒心が解けたことで、安心して暗殺部隊に斎藤を組み込んだのだろう。

 そうなるように動いたのは己自身ではあるが、どうしても苦笑いが零れてしまう。また同時に、藤堂に対しても複雑な想いが募るのだ。

 伊東の考えに賛同してではなく、別の思惑を持って御陵衛士に加わったのだと、胸の内を明かされたにも関わらず、伊東には報告をしていないようなのだ。しかし、斎藤の内偵行為を咎めることなく、かと言って密告する訳でもなく、また日々変化する伊東たちの情勢に興味を示さず、けれど御陵衛士のひとりとして活動する藤堂の矛盾した行動は、とにかく不安定の一言に尽きた。

 ──出奔する前に、藤堂に声を掛けるべきか。

 そう悶々と考えていた矢先のことだった。

 幾度目かになる薩摩藩邸への伊東の警護で、あと少しで門に辿り着くというところで、奇妙な駕籠かごが闇深い通りに姿を消したのを見た。

 大名駕籠や姫駕籠と比べて質素だが、薩摩の家紋が入っていたことが印象に残ったのだ。

「あれは……」

「ん?」

 思わず口走った斎藤の視線の先を、新井に提灯で足元を照らされて歩いていた伊東が辿る。

「ああ、いらしていたのか」

 伊東も辛うじて、薩摩藩の駕籠持ち人の姿を目の端に留めることができたのか、残念そうに嘆息を漏らした。

「あの駕籠に乗っている御仁をご存知なのでしょうか?」

 斎藤の質問に、おやっと柳眉を上げた伊東は薄く笑った。

「君が周囲に興味を持つなんて珍しい」

「……いえ、差し出がましい口を利きました。聞き流してください」

「いや、非難している訳じゃない。ようやく君も、己を取り巻く環境に目を向ける気になったみたいだね。良い兆候だよ」

 嬉しそうに微笑む伊東は、ばつの悪い顔をした斎藤の肩を叩いた。

「様々な会合に君を護衛に付けてきた甲斐があったということだ」

「もったいないお言葉です」

「あの駕籠にお乗りなのは、岩倉具視卿だよ」

「あの……」

 今や朝廷で絶大な権威を誇る男の名に感心しきっている斎藤に、伊東は得意げに微笑んだ。

「新選組にいた頃に比べて、随分と交友関係が広がったものだよ」

「まるで小姑のごとく、我らの行動を監視していた奴らがいましたからね」

 皮肉げに口元を歪めた新井が、鼻を鳴らして言い捨てる。

「今だってそうかもしれないさ」

 伊東はそんな新井を顧みて、策士ばった笑みを浮かべた。

 一瞬、斎藤の背筋がひやりとした。

「まさか」

 斎藤の言葉に、伊東は悪戯っぽく笑う。

「そうだな。あちらは悲願の幕臣に取り立てられたばかりで浮かれているかも知れない。だが、気を付けることに越したことはないからね」

 ──事実、目の前に間者がいるとは露知らず。

「わかりました」

 愚直に頷く斎藤は、今宵御陵衛士を抜けることを決めた。

(藤堂)

 残念だが、声を掛けることを断念せざるを得ない。

 首筋がぴりぴりとする。

 このまま御陵衛士に居座ることは危険だと直感が告げている。


 いつものように伊東の護衛を終えた斎藤は、部屋に戻る振りをして、御陵衛士を出奔したのだった。




 しとねからゆっくりと半身を起こした椿姫は、傍らで眠る吏鶯の顔を見下ろした。

(……やはり、今宵もか)

 時折睫毛が震える吏鶯の苦しげな寝顔に、そっと手をかざした。

「去れ、穢れよ。汝らの妄執は浅ましいにほどがある」

 吏鶯の表情がより苦悶の色が出る。

 椿姫の手のひらに、ちりちりと僅かな反撃を受ける。

「笑止」

 細めた眼に光が瞬いた。

「その程度の力で妾に楯突く気かえ?」

 ふわりと微笑み、さほど力も籠めずに手のひらを握れば、吏鶯に規則正しい寝息が戻る。

(幾度となく穢れを祓っても霧散するだけで、また幾日と経たぬ間に吏鶯の身に纏わり付いてくる)

 やや気疲れした椿姫の紅唇から溜め息が零れた。

(……すめらぎの血統とは、業の深い闇を抱えている)

 神代とも呼べる太古の時代から続く唯一の血統。

 それ故、その血に宿る闇は根深い。また、恨み妬み、憎悪や愛欲といった暗く澱んだ穢れが溜まる御所からやってくる公家の妄執も、業深い皇の因果を刺激しているのだが──。

(あの男、妾の姿が見えているだろうに、あの厚顔さ。なかなかできることではない)

 くつくつと笑う椿姫の眼には、珍しく好意的な色が浮かんでいた。

 強固に閉じられた心を幾度となく覗き見した際、断片的ではあるが把握した公家の願い。

 己と同じ身分の低い幼馴染みへのせつない想いと、彼女と語らった海原の輝き。そして、沈む夕日の先に広がる世界への憧れ。それが突如奪われたことで高まる怒りと悲しみ、己への失望。

 彼女の命と引き換えにして生まれた赤子に対する憎しみと、成長するにつれて彼女の面影を色濃く受け継ぎ、聡明さを磨かれてゆく悦び。彼女とは果たせなかった夢の実現に、抱く理想を共に分かち合いたいという想い。

 出仕するだけの低い身分から、元凶となった男の傍に近付けるほどに登り詰めた公家の深淵しんえんなる心の闇。

 どうしてどうして、吏鶯を始め公家やヒト斬りと、己を楽しませてくれる者の多さよ。

(妾がヒトに対して好意を抱くなど初めてのこと)

 これまで椿姫にとって玩具であり、糧を得る家畜同然でもあったヒトに、真名まで教え、夜な夜な蝕む穢れを祓ってやっている。

「……椿、姫」

 寝言ですら律儀に愛称で漏らす吏鶯に、椿姫の胸中に温かいモノが込み上がる。


 ──この感情を何と名付けたものか。


 ふわりと浮かび上がった微笑は、これ以上ないほどにやわらかだった。



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