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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
参、 御陵衛士
30/47

 3

 新選組を脱走してきた茨木たちは無事、夜明けと共に下立売しもたちうりの京都守護職屋敷へ駆け込むことができた。会津藩公用人の小野と諏訪に面会し、新選組脱隊の嘆願書を提出したのだ。

 早朝から舞い込んで来た厄介事に慌てた公用人たちは、すぐさま新選組に連絡をする。

 これまでに新選組で脱走事件が何度かあったことは報告を受けていたのだが、預かりの会津藩にまで駆け込み、何とも仰々しい嘆願書まで携えての例は初めてだったからだ。

 隊の約によれば、脱走者は切腹だと聞いている為、迂闊なことはできない。また、目を通した嘆願書には、幕臣となるのは不本意という意志が伝わり、今まで口煩く臣に取り立てろと主張してきた組織に属する者としては、いささか異質な感じを受けてもいた。

 ほどなくして近藤以下、土方と山崎、吉村に尾形が守護職屋敷に駆け付けてきた。まるで脱走が既に知れていて、尚かつ駆け込み先も知っていたかのような素早さだった。

 それもそのはず。衛士たちの間者として動く斎藤の通報のおかげでもある。また、今回の脱走事件を慎重に片付けようとする節も窺え、末端の平隊士たちの動揺と混乱を、それぞれ幹部たちが冷静にいなしていた。

 逆に哀れなほど浮き足立っていたのは、脱走した仲間を救うべく、めまぐるしく動く御陵衛士たちだった。特にその長である伊東は、単独で新選組の屯所に赴き、近藤と一対一で話し合うなど、できる限りの救済の道を模索していた。


 今日もまた、伝もなく為す術もない面々が一室に集まり、自身らが出す重苦しい空気に押し潰されている中、ただひとり能面のように一切の表情の動きがない者がいた。

(……藤堂)

 斎藤は痛ましげに眉をひそめた。

 己が上手く言葉を掛けられる人間ではないことを熟知しているので、せめて藤堂の視界に入りやすい場所にと腰を下ろす。

 本来なら賑やかで華やかな男だというのに、まるで別人のような無表情さだ。部屋の片隅で膝を抱えて足袋の先を見つめる姿は、御陵衛士として行動を共にして度々見掛けるものだった。

 結成当初から一緒だったからこそ、藤堂の負への変貌に斎藤の胸が痛む。

 ふと、藤堂の視線が動いた。

 斎藤と目が合い、やや驚きの表情をすると、照れたように首を傾げて微笑を零した。けれどその微笑みは苦しげに歪められたものだった。

「一さんのそんな顔を見るの、最近多いよね」

 ずりずりと膝を抱え込んだまま斉藤の傍に近寄ってきた藤堂が、今度こそ照れた顔をした。

「どんな顔だ?」

 思わず顔を撫でた斎藤は、藤堂の前で随分と気が緩んでいたことを知り、改めて気持ちを引き締めた。

「もの凄く心配そうな顔」

 ころころとちいさく笑う藤堂に、服部が咳払いをする。それに首をすくめて舌を出した藤堂は、斎藤を見上げて声なく笑った。

「何? 俺ってそんなに危なっかしい?」

「……そうと自覚はあるんだろう?」

 斎藤の指摘に面白そうに目を見開いた藤堂は、膝上に顎を乗せた。

「斎藤さんって不思議だよね」

「何だ、いきなり」

 困惑げに眉を寄せる斎藤の反応を、にこにこと笑って眺めていた藤堂だったが、ふいに表情を強張らせて呟いた。

「佐野さんたち、どうなるんだろうね……」

 ぽつりと零れた不安。

「……また、今夜も眠れないよ」

 ひとり眠れぬ夜が長いのか、藤堂は淡く微笑んだ。

(いや、今度も眠れないのは藤堂だけではないだろう……)

 一様に沈んだ面々の顔を眺め見た斎藤の胸の中に、暗くて重いおりが降り積もる。

 ──何故己は、こうも影ばかりに偏ってしまうのだろう。

 脱走者たちの歩む、免れぬ運命に加担した己の薄暗さに、斎藤はまたひとつ心を殺す。

 ひとつ心を殺せば、人として何かがひとつづつ失ってゆく。

(今夜も眠ることはできなさそうだ)

 滲み出る苦笑は酷く息苦しく感じた。


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