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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
弐、 夢寐《むび》の狭間
27/47

 8

「斎藤さん。伊東先生が遊説先から戻られている。ちょっと付き合ってくれ」

 屯所に戻った斎藤を硬い表情で出迎えた篠原が、周囲を気にしながら近寄ってきた。

(きたか)

 いよいよ伊東一派が表立って動き出す時が来たのだ。

「今までどこに行っていた?」

 途中、すれ違ったふたりの平隊士からの挨拶もそぞろに、篠原は小声で詰問する。

 斎藤は予め用意していたこたえを紡ぐ。

「懇意にしている女の家にさ」

「なんだ、斎藤さんにも囲っている女がいたのか!」

 意外そうに目を瞬かせた篠原は、次いで安堵する。非番の沖田の姿がなかった為に、もしや沖田と共に行動しているのではと、怪しんでいたのだ。その心配がなくなると、俄然かぜん興味が湧いてくる。

「来る者拒まずの斎藤さんにしては珍しいな。だが、そんな斎藤さんが囲うほどにご執心となると、余程佳い女なんだろう?」

 ちらちらと横顔を見てくる篠原に、斎藤はちらっと笑った。

「篠原さんも知っている女さ」

「なにっ?」

 まさか己の馴染みの女かと、篠原の斎藤を見やる目に険が帯びる。

「先の謹慎騒ぎになった宴で、俺にはべっていた女芸者。覚えているか?」

「ああっ、あの女か!」

 くるりと目を揺らした篠原は、深く頷いた。

「いや、凄い。女の執念だな」

「執念?」

 酷く感心している篠原に、斎藤は問う。すると篠原は、意地悪げに笑った。

「あの芸者だが、結構前から伊東先生が贔屓にしていたんだ。今度の酒宴に斎藤さんを呼ぼうかと話が出た時に、是非自分も座敷に呼んでくれって、伊東先生にしきりにおねだりしていたんだよ。自分の色香で陥落させてやるってな」

 篠原が紡ぐ言葉の途中から、困った顔をしていた斎藤は、最後に破顔一笑した。

 あの宴はやはり己を色仕掛けする為に、開かれたのだと、公言したのと同意だと篠原は気付いていない。それに、紺乃の涙ぐましい諜報活動が垣間見えてしまった。

 ──これが笑わずにいられようか?

「あっはははは!」

 突然挙がった斎藤の笑い声に、篠原は絶句し、目を剥いた。斎藤の心からの笑い声を初めて聞いたのだ。我に返って見渡しても誰もいない。こんな希少な場に、己がいることに気付いてしまう。

 いまだ腹を押さえてくぐもった笑い声を漏らす斎藤に、篠原は新たな想いが籠もった眼差しを向けた。

「そうか、俺はまんまと陥落させられたというわけか」

 目尻の涙を拭い、ようやく笑い落ち着いた斎藤は篠原を見やった。

「気の強い女だとは思っていたが、これほど剛毅ごうきだとは思ってもみなかった」

「確かに、押しは強そうだな」

 篠原の言葉に、斎藤は再び笑いせた。

「ああ。新しい簪が欲しいとねだられた」

「女の物欲は底がないぞ」

 珍しく流暢に喋り続け、あげく困ったように苦笑する斎藤に、篠原はすっかり信じ込み、信じ過ぎた上に少し同情もした。

 ──そのすべてが作り話だとも知らず。

「まあ、大丈夫さ。これからの伊東先生についていれば、ここより後ろ盾が金持ちになる。女を囲えば金がかさむ。いい機会じゃないか」

 斎藤の笑い声に警戒心を忘れた篠原が、機嫌良く応えた。

 一瞬だが、斎藤の目に光が宿る。

「だとしたら有り難い」

「伊東先生が待っていらっしゃる。急ごう」

「ああ」

 斎藤は頷き、篠原に続いた。

 その時浮かべた表情は、確かに人の悪さが滲み出ていた。


 伊東が九州へ遊説に出発してから一ヶ月以上が経っていた。

 いよいよこれから伊東の叛乱が始まるのだ。



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