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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
弐、 夢寐《むび》の狭間
26/47

 7

「貴方にお願いがあります」


 真剣な顔で歩み寄る吏鶯に、斎藤は困惑する。

「もうこの寺にはこないでいただきたい」

 きっぱりとした拒絶に困惑の色が濃くなった。

「しかし、何故……」

 戸惑いを隠せない斎藤は口ごもる。

 すると我に返った吏鶯は赤面し、ぱっと顔を背けた。

「僧侶としてお恥ずかしいことですが、貴方の存在が私の平常心を掻き乱すのです。……貴方の心に巣くう闇の深さは、直視できないほどです」

「……心の闇」

 斎藤は僅かに目を見張ると、次いで苦笑を漏らした。

「いかにも俺は、数多くの命を奪ってきた人斬りだ。仏の道に染まっておられる貴殿から見れば、余程救いようもない悪鬼のごとくに見えるでしょうな」

 池田屋事件以降、京の住人たちから内心はどうあれ、面と向かって──それもあからさまに拒絶を受けたことがなかった為、これはこたえた。

「いえ、そうではなく……」

 言いよどむ吏鶯はゆるくかぶりを振ると、俗世の人間臭くちらっと笑った。

「生臭さ坊主と呼ばれても仕方がない。……私はただ、貴方と椿姫を逢わせたくないのです」

 生臭さ坊主とは、仏道の掟を無視し、酒や女に溺れきったような者が冠するものだ。目の前に立つ白皙はくせきの美貌を持つ青年僧に似合う言葉ではない。

「……わからんな。確かにあの女は美しいが、あれは魔性の美しさだ。目を惹かれはしても、人の身で愛おしむものではないはずだが……」

 下品な勘ぐりだが、目の前の青年と女がしとねで絡まる姿を想像してしまい、ぞっと背筋を凍らせた。まさかとは思うが、心酔しきっている吏鶯を見ると、否定できないものを感じた。

 けれど、己の身に起きた接吻を思い出せば、とんでもない自殺行為だと呆れるのと同時に恐怖した。

(そうか。……これがこの男の闇か)

 人外の魔を愛することは正常な精神では無理というもの。本来悟りを極めることが最上とする仏道に身を投じておきながら、背徳をものとはしない吏鶯の心の闇に触れ、斎藤の背に戦慄が走った。

(この男は俺よりも深い闇を持っている)

 土方が持つ闇であるならば理解できた。同じ立場であれば、まさしく同じような生き方をしていたのではと、考えてもいた。だからだろうか、土方に妙な親近感が湧き、監察方よりも性質たちの悪い内偵行為や暗殺も悪態つきながらもこなしている。

 しかし、吏鶯が持つ闇は根本的に違う。

(この男がもし剣を持って対峙したならば、……俺が死ぬな)

 いかに剣の達人であろうとも、心に巣食う闇の深さに敗れることがある。たとえ相手がど素人であってもなくてもだ。

(俺にとって、この男こそが一番畏怖する存在なのかもしれない……)

 知らず武者震いする斎藤は、静かに息を吐いた。

「……では、何故貴殿は僧侶を続けられている」

「何故と言われましても……」

 やや困惑げに眉をひそめた吏鶯は、力が抜けたような笑みを浮かべた。

「破壊僧といえども、仏法の教えは私の一部であり、彼の姫もまた私の一部なのです。今更どちらか一方を切り離すことなどできません」

 そして不思議そうに斎藤を見やった。

「斎藤様こそ何故、人斬りを続けなさるのか。御自分の現状を厭わしく感じ、救いを求めておられるように御見受けしましたが?」

 ぐっと喉に詰まらせた斎藤は、殺気立った目で吏鶯を睨んだ。

「俺から見れば、僧侶の身の貴殿こそが、救済を望まれているようにしか見えないがな」

 売り言葉に買い言葉。

 斎藤が口走った言葉に、吏鶯の眼光が鋭くなる。

「……おかしな事をおっしゃる。私は今とても幸福ですよ。何故、救済を欲しているように見えるのでしょうか」

 お互いに触れてはならないものに触れたのだと確信した。

 抜き身の剣が激しく重なり合い、火花を飛ばし合う剣呑な雰囲気が流れる中、人外の魔が割り込んできた。

「おやおや、子猫同士の喧嘩かえ?」

 楽しそうな笑い声に毒気を抜かれた男たちが振り返れば、壮絶な美の塊がにっこりと微笑んでいた。

「吏鶯は妾の玩具を取り上げようと、いけずなことを言ったのかえ?」

「椿姫っ」

「ヒト斬りのそなたもよ。可愛い吏鶯をいじめてよいのは妾だけだと覚えておきや」

「……」

 何故だろう。結局は痴話喧嘩か何かに巻き込まれたような感覚に陥った斎藤は肩を落とし、踵を返した。

「ヒト斬りや」

 斎藤の背に椿姫が呼び掛ける。

「またおいでや」

 後からくつくつと笑い声が響いてきた。

「では、その時にお前を斬ってやろう」

 首だけ顧みた斎藤が笑えば、椿姫もまた愉快げに笑った。

「それは楽しみなこと」

「椿姫っ」

 非難声を挙げた吏鶯に、椿姫はたっぷりと微笑んだ。その意見することを許さない眼光に、押し黙るしか術はない。

「そなた、妾に断りなく死ぬではないぞ」

 せっかく出会えた玩具を失うのは困るとばかりに口を尖らせて言う。人外の者から命の心配をされた斎藤は目を瞬かせた。気が付けば、こらえきれずに噴き出していた。

 斎藤らしからぬ破顔した様は、京都に来てから初めてのこと。だからこそ人間らしい感情の起伏が、己にまだ残っていたことに戸惑う。

 だが、どこかでほっと安堵する自分がいることを知っていた。

「俺も当分死ぬつもりはない」

「ならよい。また妾と遊んでたもれ」

「その言葉、後悔させてやろう」

「楽しみにしておるえ」

 ふふふ、と満足げに笑みを浮かべる椿姫に反し、暗く硬い表情の吏鶯は、殺気も露わに斎藤を睨み付けている。椿姫の娯楽を奪うことを許されず、色々と心中穏やかではいられないのだろう。そんな想いが汲み取れて、今度こそ彼らから離れた斎藤はこっそりと苦笑した。

 斎藤自身、何かに強く執着するものがない為、尚更だった。

 唯一の趣味である刀剣探しでも、乞われれば気に入っていた剣を譲ることに抵抗はなかった。その理由はあっさりしたもので、また気に入る業物と出会えればいいことだと、割り切れていたからだ。また、その目利きに期待する周りから、譲り渡す予約まで入るほどだった。

 武士が命を預ける剣でさえ特別執着することがないのと一緒で、女に対してもやはり淡白だった。

 言い寄られれば押し返す理由もない。女を抱くことは純粋に気持ち好いし、楽しい。女の柔肌が人を斬った後のたかぶった血を鎮めてくれるのも事実だ。……かと言って、どっぷり溺れることはなかった。

 また男として、権力に対する魅力や興味はある程度感じるが、それに伴う野心や信念が間に合っていなかった。

 こうした中途半端な己をよく自覚しているからこそ、吏鶯が見せた執着心を羨ましいと感じたのだ。

(俺にも執着できる対象があるのだろうか)

 自問しながら歩を進める斎藤の胸に、ちくりと痛みが走る。そして山門を降りて広がる落ち椿の光景に、自身の暗い未来が見えたようなきがした。

 ──過去現在と多くの人を斬ってきた。未来もまた続けるのだ。

 一瞬だけ、首ごと落ちた椿の花が生首のように見えてしまった。……そう、いずれあの中に己の首も加わることもあるのだ。

(……執着か。見つけられるのだろうか)

 いつ死んでもおかしくない時期の、組織に属する己の立場を考えた。

 武士の子として剣の道は外すことはできなかった。他人に比べて才があったようで、上達するのが早く、また楽しいと感じてもいた。今では剣なくして己を証明することが適わなくなってしまったほどだ。

 ──それでもふと思うことがある。

(もしかしたら俺にも、違う生き方があったのでは……)

 豪農とはいえ、百姓出身である近藤土方を含む新選組を藩お抱えの臣にと、会津藩が内々に動き出してから、実はそんなことが胸中に湧き上がっていた。

 まだ正式に発表はされていないが、そのことを耳にした際に違和感がぎったのだ。彼らをよろこんでやりたい気持ちと、そうでない感情。宿るのは嫉妬心だ。それは幕臣という身分に対してではなく、彼らの生き様を羨ましく思う心だった。

(今更か)

 悲しい、とは思わない。ただ、酷く寂しい瞬間がある。

 風が木々を揺らす。

 ぽとりぽとりと降り落ちてくる椿でさえ、斎藤の心を慰めることはできなかった。

 しばらくして、浮き沈みの激しい己の姿に気付き、次いで苦笑を浮かべた。


 その後の顔はいつもの斎藤だった。


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