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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
弐、 夢寐《むび》の狭間
25/47

 6

 椿の花とは、秋から春まで咲き続ける花期の長さがある。

 花色と花形の多彩さに、艶葉のしっとりとした落ち着き、樹姿のまとまりの良さ。尚かつ増やしやすくて育てやすい為、愛好家たちはこぞって種を撒いたり、多種との交配で己だけの新花を作り出している。

 再び踏み込んだ石段には、落ち椿は健在で、斎藤の目を楽しませた。

 椿だけでなく、花木全般に対して詳しい知識など皆無に等しい斎藤だが、暗紅色の一重咲きの限りなく原始に近い姿に好感を抱く。

 だがその一方で、何者にも手を加えられずに咲き誇る凄然とした美が痛ましく、しかし羨ましくも妬ましいとも感じるのだ。

 ふと視線を感じて顔を上げれば、まだ雪が残る山門の前に佇む女の姿があった。

 白錦地に赤い椿の花模様が鮮やかな着物に、相変わらず型破りにも、長い髪を童女のように背へと流している。

(あの時の女だ)

 斎藤の喉が僅かに干上がりはしたが、腹に力を入れ、いつの間にか立ち止まっていた足を動かした。そのまま嫣然えんぜん微笑を湛える女の脇を通り過ぎ、山門を下ろうとした瞬間、女の忍び声が聞こえてきた。

「それほどに妾が怖いかえ?」

 高飛車な物言いだが、それは今まで耳にしたことのない、とろけるほどの美声であった。

 思わず振り返った斎藤の目に、絶世の美女が首を傾げて微笑む姿が映り込む。凄絶な美に、眩暈を覚えた。そう、まるで雷に撃たれたかのように棒立ちになった斎藤の額に、うっすらと汗が滲む。

 斎藤の眼前にするりと移動した女は、白く細い指先で、男の前髪のほつれを撫で付け、くすりと笑った。……その妖艶なこと。

「他愛もないこと」

 小馬鹿にされていることがありありと見て取れる女の態度に、斎藤には珍しく怒りの感情が突如として湧いて出た。その勢いのまま目の前にある女の手を掴み上げる。細くたおやかな手だった。

「俺を誰だと思っている」

 声音低く呟いた斎藤に、女は少しもたじろぐことなく悠然と微笑んでいた。

「ヒト斬りであろう?」

 童女のようにあどけなく、遊女のごとく色香を漂わせ、女は応える。

 瞬間、殺気を纏った斎藤は、凍えるような目で女を睨み付けた。

「まるで毛を逆立てた猫のよう」

 くすりと笑った女は、斎藤の首筋に顔を寄せて吐息を吹き掛けてきた。

 びくりと身体をおおきく震わせた斎藤は、女の手を放り出す。くすくすと笑う女に向かって、居合いのように抜刀した。

 たが、鋭利な切っ先は空を切る。

 女の姿が掻き消えたのだ。

(……やはり、人外の者か)

 胸中で舌打ちする。


 くすくすくすくす……


 どこからともなく響き渡る女の笑い声が、斎藤の神経を逆撫でた。

 耳朶じだ奥にまでこびりつく笑い声を振り切るように、表情硬く白砂壇びゃくさだんを通り抜ける。

(……不愉快になるだろうと解って来たと言うのに、この様とはな)

 自嘲気味にごちた斎藤はちいさく息を吐く。それでも己の足は引き返すことなく境内へと歩を進めていることに気付き、呆れた。

 そうしてようやく、僧侶たちの読経の合唱が建物から漏れ出ていることに気付くのだ。

 詳しくは知らない読経の内容だが、漏れ聞こえてくる声には一部の誤りもなく見事に調和が取れている。仮屯営所である西本願寺でも馴染んだ読経の旋律に、不思議と荒れた心が鎮まってゆく。

 しかしだからと言って、熱心な信仰心を持っている訳ではない。声音低く響く読経が、やけに心静まる時もあるということだ。

(いつどこで果てるかも知れない身だからこそ、耳心地良く聞こえるのかもしれん……)

「まだ俺に用があるのか」

 鋭く発した言葉は、背後に立つ女に対してのものだった。

「警戒心がすこぶる強い男だこと」

 少し残念そうに呟いた女を、斎藤は眼光強くして振り返る。

あやかしが何故境内にいる? 僧侶たちの法力が怖くはないのか?」

「法力が怖い? そんなものヒトにあろうはずがなかろう。それこそまやかしに過ぎぬ」

 首を傾げて応える女に、斎藤の脳裏に青年僧の姿が浮かんだ。

「だが、あの僧……吏鶯と名乗ったあの男はどうなんだ。まさか虜にして使役しているのか?」

 詰問した途端、女が笑い声を立てた。

「何がおかしい」

「それを知ってどうするつもりかえ?」

 斎藤の一挙手一投足を試すかのように、眼を細めて女は言う。

「俺に害成そうならば、斬る」

 すると女は弾けたように眼を見開いた。

「ヒト斬りが妾を斬る?」

 面白いものを見るように、斎藤の頭の先から足の爪先までじろじろと眺め見た。

「できると思っておるのか?」

「斬る」

 前回、確かな手応えを感じていた斎藤は、この妖の女を傷付けることも、命を絶つこともできるはずだと考えている。しかし、手応えを感じたはずなのに、眼前に立つ女のどこにも怪我らしい傷が見当たらない。それも皆、妖の不思議さ所以ゆえんからなのか、至極当然と納得もしていた。

「そなた、面白い」

 くつくつくつと喉を鳴らす女は、首を傾げて斎藤を見つめる。

「妾を殺せるほどの闇があるとでも?」

 とろりと潤んだ眼を細め、女が手を伸ばしてくる。瞬間、身体を強張らせて引く相手に構わず、頬を撫でてきた。

「……あるいはそなたなら、妾を斬ることができるやも知れぬ。先日浴びせられた剣気は、この身にみた」

 息をするのも忘れるほど女の顔を凝視する斎藤の膝が崩れた。中腰になった斎藤の唇に、女のそれが重なる──。

 途端に、耳心地良く聞こえていた僧侶たちの読経の声が消えた。その代わりに、耳触りの悪い金属音が尾を引いていた。

 いつか嗅いだことのある花のかおりが嗅覚を支配し、口を塞がれていることを抜きにしても、思うように呼吸ができないでいる。

 視覚は目蓋を閉じる女の麗しい顔を捉えたまま、斎藤は僅かにも動くことができずにいた。

「ふふ、まことに面白い男だこと」

 唇が離れても尚、不自然な体勢のまま硬直している斎藤に向けて、女が笑う。

「僅かとはいえ、妾に生気を奪われて生きておろうとは。しかし、妾を斬ると豪語するからには、そうでなければ張り合いがない」

 意地悪い笑みにようやく自我を取り戻した斎藤は、ぞっと背筋を凍らせた。

 まるで野生の肉食獣と口付けを交わした錯覚に陥り、酷薄とした恐怖感が今頃降ってきたのだ。それと同時に、新選組結成当初、見世物小屋で生きた虎を見た時に感じた衝撃をも思い出した。

 ただ単に猫がおおきくなっただけだろうと、自慢の鉄扇で虎の鼻先を叩いた芹沢に牙を剥き、雷鳴のごとく咆哮ほうこうを浴びせた野生の獣。

 黄金と漆黒の縞模様を持つ、美しい毛皮の体躯が波打った。驚くほど太い前足に出現した凶悪な鋭い爪を、鉄格子を挟んだ芹沢に振り下ろしたのだ。

 それは一瞬の出来事だった。

 鉄格子がなかったら、芹沢はその爪で他愛なく引き裂かれていたに違いない。流石の芹沢も息を飲んでいた。くるりと隊士たちに向き直り、「これは本物だな」と、苦笑を零したに留めた芹沢は、やはり常人の気概それとは違った。

 芹沢ほどの豪胆さを持ち合わせていない斎藤は、この時冷や汗を浮かべながら、捕食者の絶対的な威風に手を震わせていた。

 だが、先程の接吻を顧みれば、この体験はまるで比較にならない。


 人外の者。


 その言葉の意味をまざまざと思い知らされた。

 ようやく落ち着きを取り戻した斎藤は、唇を指の腹で強く拭った。

「……俺を殺す気か」

 この第一声を、女は気に入ったようだ。

「先立っての挨拶で傷付けられたお返しゆえ、非難は受け付けぬ。……それにしても、そなたの生気は美味であった。もう少し舐めても?」

 嫣然と微笑む女を睨み付けながら、ゆっくりと剣の柄に手を伸ばす。

 かちりと鍔が鳴った。

「おお怖い。毛を逆立てた猫が爪を向けてくる」

 女は伸ばし掛けていた手を引っ込めると、重さを一切感じさせない身のこなしで斎藤から離れた。

「またここへおいで」

「断る」

 斎藤は憮然と応える。正直、二度と来るつもりはなかった。

「二度この境内に足を踏み入れたのなら、次もあろう」

 女はくつくつと笑う。

「おいで、また遊んでやろう」

 再度繰り返し、女は姿を消した。

 目の前で煙のように消えた女に、斎藤は驚きで身体が硬直する。しばらくして息を吐き出すと、四肢ししの力を抜いた。

 何度対峙しても畏怖と敗北感が全身を満たす。

 隊内で随一とも噂されている斎藤が、これほどまでに翻弄されるなどなかった。

(……俺はもしかしたら、この感覚を味わう為に来たのだろうか)

 日々の隊務で否応なしに晒される命のやり取りに、緊張感がなくてはこなせない。だが、あまりにも日常過ぎて、また腕が立ち過ぎるせいもあってか、己の命が失う可能性や相手の命を奪うことに対する恐怖感がれていた。

 だからこそ、刺激を与えてくれる存在を求めていたのだと、はっきり自覚した斎藤は思わず赤面し、手で口を覆った。

(まるで玩具を与えられた童子どうじじゃないか)

 否定したい気持ちとは裏腹に、心浮き立つのと同時に武者震いがした。


 くすくすくすくす……


 女の笑い声が耳を掠めてゆく。

 益々赤面になるところを、掻き集めた自制心でもってこれを阻止した斎藤は、帰途につこうと踵を返した。

「待ってください」

 背後から静止の声が掛かる。

 その声の切迫した響きに、斎藤は思わず立ち止まり顧みた。

 そこには、嫉妬と敵意、そして恐れと不安を浮かべた眼差しをこちらに向ける吏鶯の姿があった。

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