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須弥壇に散華する花を採る為に、平籠を抱えて白椿の花を摘む吏鶯の手がぴたりと止まる。
ここのところ、吏鶯は苛立ちを隠せなかった。
(あの男が来てからだ)
いや、正確には、あの男が向けた剣が彼の姫の身体を傷付けたことにより、自身の気持ちに変化が起きたのだ。
花を手折る指に力が籠もる。
握り潰した花弁が、手の内から何枚か零れ落ちた。同時に強い焦燥感と孤独感が爪先からじわりと滲み出すと、波紋のように広がり、幾重にも重なってゆく。
けれど、虚ろに曇った吏鶯の目に零れ落ちた花弁が映り込むと、ふいに目元がやわらいだ。
白い花弁が、どこか槿の花のように見えたのだ。早春とはいえ、寒さも厳しいこの季節に、零れ落ちた花弁に夏花を連想させるほどの輝きを内包していた。
ふいに、夏の情景が蘇ってくる。
常緑樹である椿だが、やはり冬から春に見頃を迎えるだけに、夏の暑さには弱いらしい。
「憎らしいほどに暑いのう」
板廊下で脚を投げ出した格好の椿姫の傍らで、団扇を扇ぐ吏鶯は苦笑を零した。
「貴女にも弱点があったのですね」
「ふん。弱点もなにも、成人さえすればどうとでもなるのに……」
ばしゃん、と水を蹴り上げた椿姫は、頬を膨らませた。
板廊下の真横には、庭に降りる為に設置されたおおきな飛び石がある。その石の上に行水用の盥を置き、水を張っていた。そこに素足を入れて冷やしていた椿姫だったが、見るからに暑さに中てられて、ぐったりとしていた。
できることなら氷を浮かべてやりたかったのだが、真夏の氷は希少で高価な為、手に入れることができず、代わりに庭で咲き誇る槿の花を何個か浮かべることにしたのだ。
足の指で器用に槿の花を掬い上げ、足の甲で花をぽんぽんと蹴り上げる。
つい先程まで暑さを愚痴っていたのに、いつの間にか楽しげな笑い声を漏らす椿姫の変わり様を微笑ましく見守っていた吏鶯は、内心複雑でもあった。
(日頃から常人離れした力を見せつけられている分、普通の子供らしい一面にほっとするというか、物足りなくて残念というか……)
視線を感じた吏鶯は、黒目がちな瞳がじっとこちらを見つめていることに気付く。
内心ぎくりとなる。
「そなたの感情は複雑で、なかなかに興味深い」
笑みを浮かべた椿姫は身体を傾け、吏鶯の顔を下から覗き込んできた。
「妾に何を期待しておる?」
「期待などと……」
心内を読まれた動揺で、吏鶯の整った顔が僅かに崩れる。
「そなた自身気付かぬようだが、常に縋るような目をして妾を見つめておる」
たまに煩わしくてかなわないと告げられ、吏鶯の表情は凍った。それを見た椿姫が、意地悪げに笑みを零す。
「そなた自身、何を望んでいるのか、よくよく考えたほうが良いえ?」
七歳の童女に諭されるという居心地の悪さを感じながらも、椿姫の言が琴線に触れたのは事実だった。
「いずれ、解る時が来よう」
だがその時は妾を失望させるな。
顔は可愛らしく微笑んではいても、その瞳には凶暴な光が宿っていた。
(私自身が望むこと、椿姫に期待すること……)
つと、握り締めたままだった手を緩め、残骸となった花を見下ろした。
(──くっ、)
久しぶりに覗き込んだ己の闇に対し、嫌悪感が募る。
(……この間、葬儀があったばかりだからか)
もう十何年と吏鶯を苦しめてきたものが、つい先日、逝った。しかし、その苦しみから完全に解放された訳ではない。
ここ数年前から頻繁に吏鶯の前に現れる公家の顔が脳裏に浮かび上がる。
すべてを見通すかのような微笑みが焼き付いているせいか、ふとした瞬間に浮上すれば他愛なく吏鶯の神経を逆撫でし、蛇のように絡み付き、身動きを封じられてしまう。
(何故、今更になって構うのか──)
潰れた椿が己と酷似していたことに動揺して目を逸らせば、苦笑が零れた。
改めて椿の残骸を見つめ直した吏鶯の表情には、どことなく途方に暮れたような弱々しさがあった。
仏の道は一時の安らぎを与えてくれる。けれど、心の奥底にある闇を救ってくれることはない。寧ろ逆だ。闇の深遠を掘り下げてゆくばかりだ。
だからこそ、彼の姫との出逢いに、救いを求めたのだ。
(──そうだ。確かに願いがある。期待も、ある)
それでも、どこかでまだ、疑う心があるのだ。
彼の姫を初めてこの腕に抱いた時を思い出す度に、沸き起こる疑問。
(あの時、……でいてもおかしくなかったのに──)
魅了の力に支配されていた思考でも、本能的に悟っていた。魔性と交わるという禁忌に対して、覚悟をしていた。
だが、その覚悟が無駄と知った情事の後。
己の身に起こらなかったことへの驚きと、失望。そして胸中に広がった安堵感。
浅ましく滑稽な己の胸の内──。
また、あれから幾度となく肌を合わせる度に、別の感情が加わり始め、自身の感情だと言うのに、時折酷く困惑させられるのだ。
恋心を知っても慕うことなかれと、住職の言葉が脳裏に蘇るのも度々だった。
初めてこの腕に抱いた時、まるで焔に惹かれてその身を焼く羽虫のごとく、彼の姫を望んだ。だがその行為自体に、肉欲や恋情は一切なかった。
しかし今は、彼の姫を抱き寄せるだけでも、狂おしいほどのせつなさが胸に溢れ、何かが満たされるようでいて、逆に酷く渇いてくるのだ。終いには奈落に突き落とされるような、奪われ取り残されるような恐怖感もある。
次々に沸き起こる幾つもの感情を持て余し、混乱してしまう。
──これが恋、恋心なのだろうか。
それすらもわからない。
じっと花の残骸を見下ろし深く嘆息をついた後、ちいさく笑った吏鶯は、自然と手のひらの花にそっと唇を寄せた。
その感触は彼の姫の肌のように、しっとりと滑らかだった。




