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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
弐、 夢寐《むび》の狭間
23/47

 4

(……篠原か)

 自室に戻った斎藤は胸中で呟いた。

 恐らく、伊東から何かしらを吹き込まれたのだろう。不信感を露骨に宿した目をしていた。

 思わずと言ったていで、斎藤は苦笑を零した。

 ──尊王の大義名分。

 篠原の言う通りに、御陵を守護することはないだろう。死者の守り人とはすなわち、この国の行く末を憂えることを放棄するということだ。

 だが、新選組を抜ける為には、誰もが納得する名分が必要だ。たとえ理由それが白々しいものだとしても、尊王の大儀名分の理には適っている。

 実行に移すなら脱退ではない。何故なら組を脱することは、即ち切腹を意味しているからだ。脱退ではないのなら、分離でしか道はない。

 ──では、分離するその時期は?

(意外と早いのかもしれないな)

 ふと伊東の九州への遊説を思った。九州。分離後の後ろ盾探しと理解を求める為の出張なのだと、斎藤は憶測する。

 ならば、迎春の宴には既にこの意が密かに進んでいたのだ。永倉を囮に斎藤を懐柔しようと動いていたのは、いわば行き掛けの駄賃。どこか人の甘い近藤が軽い処罰を下すのを見抜き、隊の内情にいかにも憂いて見せて、軽い処罰に不服と自ら罰を背負うように、公金を使って遊説しに行ったのだ。

 なかなかどうして、伊東も人が悪い。

 僅かなりとも浮かんだ自嘲の笑みを消し、斎藤は思案する。

(紺乃が言っていた通り、薩摩藩が絡んでいることはまず間違いないだろう)

 元々伊東は水戸出身。それなのに、出張先をわざわざ九州と名指ししたのだ。既に彼らは懇意を暖めてきたのだ。

 内部分裂をさせる。または、逆に己の陣営に引き込もうと狙っている。……はたしてそれだけだろうか?

 今や新選組は二百人を超える大所帯な組織となっている。

 最近人員が急激に増えたことで、平隊士たちが複数人で寝起きを余儀なくされたり、血気盛んな若者が多い為に出てくる諸事情から、間借りしている西本願寺からの苦情が後を絶たないでいる。

 現在本拠地を定める為に、広大な屋敷を建設中で、近々引っ越しをする予定だ。

 それだけの人数を抱える新選組だが、伊東の信奉者を集めたとしても五十はいないだろう。それもその殆どが平隊士であるならば、隊の痛手には成り得ない。幹部の殆どが近藤派で固められているのだから、人員補給が可能な平隊士を何人引き連れて行こうが、多少の混乱と戦力の弱体化を図れても一時のことで、潰すまでには至らないはずだ。

 ──潰す。

 即ち、組織の壊滅。

 それを意味するのは、幹部の抹殺。否、近藤と土方の死が組織の崩壊と言っても過言ではないだろう。頼るべき長たる者の不在は、烏合の衆へと変わり果てる。

 だがその為には、一体誰が近藤と土方を手に掛けるのか──?

(まさかその為に俺を……?)

 剣の腕前で考えて、隊屈指の使い手である沖田や永倉に匹敵する斎藤ならばと、安直にも期待しているのだろうか。それとも、近藤派や伊東派にも属さない斎藤を、壊滅した新選組の残党の矢面に立たせることで、自分たちが狙われることはないと踏んでいるのか──。

(男運の悪さもここに極まり、だな……)

 あまりの買い被りに、皮肉たっぷりな笑みが込み上げてくる。

 光よりも闇。表よりも裏。

 己という人間は、余程の薄暗さを背負っているのかと自嘲する。ほろ苦い、寂しさも湧いた。

 しばらくして、胸中に吹き荒れた風がぐと、ふいに椿の花が斎藤の脳裏に浮かび上がった。

 椿の花を思い浮かべれば、同時によみがえる男女の姿。妖しげな美女と見目麗しい青年僧。現世うつしよの者とは思えない彼らに、己が親しむ闇の部分を匂わせていたことを改めて気付く。

 女のほうは闇の気配が随分と濃くて、共感もなにも得体の知れないおそれの感情が強い。けれど、俗世を切り捨てているはずの青年僧には、あきらかに人間臭い心の闇を抱えているように感じられた。

 そう、斎藤には珍しく興味が湧いたのだ。

(もう一度訪ねてみようか)

 ふたりとの出会いが強烈過ぎて、記憶を誇張しているだけなのかも知れない。

 そんな馬鹿馬鹿しさを払拭する為にも、もう一度ふたりに会ってみるのも一興。

 それに──。

(あの椿の光景をもう一度ゆっくりと見たいしな)

 雪が残る石段に散る椿の花を思い出す。

(また副長にからかわれるだろうか)

 そう胸中で呟き、薄く笑ったのだった。

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