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伊藤が新井と共に九州へ発った数日後、天皇の葬儀が東山泉湧寺で行われ、翌日無事に埋葬された。盛大かつ、疑惑と混迷が色濃い葬儀となった。
御隠れとなったのは十二月の二十五日。
宮中にて疱瘡を患ってのことだった。御歳三十六。諡号は孝明と定められた。
この時世類のない佐幕派の天皇で、京において幕威を代表とする守護職会津中将を愛し、倒幕などもってもほかと主張した人でもあった。ただ、世界情勢に関する知識は皆無であり、異人を鬼畜生のように思っていたようだった。
しかし、この天皇がおわす限り、佐幕は尊王という考えが成り立つ為に、御薨去は幕府にとって大打撃な痛手に違いない。
同月の初めに十五代将軍宣下を受けたばかりの徳川慶喜は、大喪の御儀を機に、長州征伐の軍を引き揚げている。また、情勢が不安定だからなのか、京都の町に毒殺の噂が駆け巡った。その首謀者こそが、宮中の岩倉具視ではないかと言う噂もある。
そんな中、次の皇位が第二子御歳十四の祐宮に継承されるという発表があった。それこそどこかの公家の影が見え隠れしているように感じられるのは、穿ち過ぎだろうか。
時代の流れは激動のものへと変わりつつあった。
その夜、斎藤は篠原に呼び止められる。
「よい酒が手に入ったんだが、付き合わないか?」
突然の誘いに、斎藤は薄く笑った。
「篠原さんから声を掛けてくれるとは珍しいな」
「いや、それを言われると耳が痛い」
耳穴を掻きながら苦笑する篠原は、自室へと斎藤を招き入れる。ふたりで火鉢を囲み、篠原は気前よく酒を勧めた。
「まだ数が出揃っていない灘の酒だぞ」
「珍しいな」
篠原がよい酒と言う通り、喉越しの爽やかさが際立ちながらも、後味に存在感を残す酒だった。
「京の女酒、灘の男酒とは良く言ったものだな。……旨い酒だ」
「だろう。京の酒も好いんだが、たまにはこう、腹にがつんと重いモノが飲みたくなるんだよな」
「どこで手に入れた?」
「懇意にしている小料理屋だ。そこの親父に無理を言って分けてもらった。だから詳しいことは知らん」
「益々貴重な酒だな」
味を確かめるように酒を含み、しばらくしてから飲み込む。
「旨い」
「そりゃ、良かった」
「だが、俺にまで振る舞っても良かったのか?」
「ひとりでちびちびやっても面白くないからな。酒好きの斎藤さんと一緒に味わったほうが楽しいさ」
しかしだからと言って、篠原の言葉を鵜呑みにする斎藤ではなかった。
伊東派の連中と酌み交わすのではなく、たいして交流のない斎藤を名指しすること自体、裏があるとしか考えられない。
そうして幾度となく盃を重ねているうちに、篠原はようやく酒と女以外の話を切り出してきた。
「……昨日、孝明天皇の御葬儀があったが、今日埋葬されたことは知っているか?」
「ああ」
盃を下ろした斎藤は、真向かいの篠原の顔を見やった。篠原はしばらく沈痛な表情で御悔やみの言葉を切々と語り出し、斎藤もそれに倣い、静かに目を閉じる。
「──だからこそ、だ」
面を上げた篠原が、強い口調で続けて言った。
「我らは孝明天皇の御陵を御守りしたいと思っている」
「我らとは?」
僅かな灯りに照らされ、陰翳帯びた篠原の顔が斎藤に向かう。
「伊東先生を筆頭とする者たちだ」
篠原の目が斎藤の一挙手一投足を見逃さないとばかりに瞬く中、斎藤は目を見開き、息を飲んだ。
「御陵を守りたい、か。勤皇思想の強い伊東先生らしい着眼点だな」
そして、得心したかのように頷いた。
「……そうだな。不謹慎なことだが、いや、皆が孝明天皇の死に疑惑の点があることは承知している。だからこそ不遜な輩が出てきて御陵に手をつけられかねん。そうした不届き者を取り締まる役人が配備されてもおかしくはない」
「配備されて当然だ」
力強く頷いた篠原だったが、雄弁に語った斎藤を幾分か意外そうに見やり、目を瞬かせる。
近藤派寄りの斎藤からは、厳しい非難が飛んでくるとばかり思っていたのだ。
「……そう、か。斎藤さんでもそう思うのか」
「ああ、なかなか立派な考えだと思う」
「そうか」
斎藤の言葉を胸中に納めた篠原は、盃を仰ぐ。そしてもう一度「そうか」と呟いた。その念を押すような声音に「なんだ、そんなに意外だったか?」と、斎藤が笑う。
こうゆう笑い方もできる男だったのかと、篠原は毒気を抜かれた。
微妙な表情で固まる篠原に、斎藤の眉が上がる。
「なんだ、もう酔ったのか?」
「……そうかも知れん」
斎藤の視線から逃れるように、篠原は横になって目を閉じた。だが、眠った訳ではない。目蓋は閉じていても、感覚ははっきりしていた。
「風邪をひくぞ」
斎藤の声を背中で受け止める。
ちいさく嘆息する斎藤が立ち上がり、襖を開け閉めする音を聞き漏らすことなく、感覚を研ぎ澄ましていた。
最後に感じた遠ざかる足音で、篠原は目蓋を上げる。
「……あの男、どこまで信用することができるのか」
これまで斎藤一という男の薄暗さに敬遠しがちだった篠原は、重苦しく呟いた。
苛立ちからか、耳の穴を小指で掻き始める。
「伊東さんも酔狂な……」
九州へ遊説とは名ばかりの出張の際、伊東の口から斎藤の名が挙がった。「我らが同胞となるやも知れぬ」と、晴れやかに耳打ちしてきたのだ。
確かに、斎藤の剣の腕は魅力的だ。谷の死因を言及した折りに浴びた斎藤の眼差しは、今も思い出す度に篠原の背筋を震え上がらせている。
「伊東先生。それは危険だ」
先の迎春の宴でも喉元にまで出た言葉を、終ぞ伊東には伝えられなかった。
言っても上機嫌な伊東に他愛ない一蹴されると悟ったからだ。杞憂に過ぎないなどと、逆に諭されるであろうと。いや、そうなのかも知れない。斎藤という薄暗さのある男を飼ったとしても、伊東の力量であればなんとでもなる。これ以上ないほどの同胞となるだろう。
「俺が心配していても埒がない、か」
だが、斎藤に対する不安や不信感は拭いきれずにいる。
微かに嘆息した篠原は、再び目蓋を閉じた。ようやく酒による眠気が襲ってくる。どろりとした眠りの沼に落ちる篠原の胸中では、絶えず警鐘が鳴り響いてはいたのだが、無理矢理にも己を納得させ、暗い眠りに身を委ねたのだった。




