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くすくすくすくす……
鮮やかなる深緑の色と濃密な緑の香りに包まれた閑散とする寺に、突如幼子の華やいだ笑い声が響き渡る。
皐月の日差しは陽気で、夏の暑さがすぐそこまで迫ってきている気配があった。
吏鶯が拾い上げた赤子は一年が経ち、既に三歳を迎えていた。
金銀の絹糸で刺繍が施された赤錦地の着物姿の童女が鞠をつけば、肩口で切り揃えられた艶のある黒髪が揺れる。左右前後から名を呼ばれる度に、童女は溢れんばかりの笑顔を周囲の僧侶たちに惜しみなく向けていた。
「あっ」
転がる鞠を追い掛けた弾みに片方の草履が脱げてしまい、丸みのある砂利の上に、白くちいさな足袋が露わとなる。
「足に怪我はないかい?」
童女を囲んでいた僧侶のひとりが、脱げた草履を奪うように拾い上げ、所在なく立ち竦む童女の足元へ置いた。すると童女は、屈む僧侶の肩に手を置き、にっこりと微笑んだ。
「履かせておくれ」
強くしっかりとした口調で告げられた願い──否、簡潔に過ぎるほどの命令に、僧侶は肩を震わせる。周囲の仲間から注がれる嫉妬と羨望の眼差しを浴びて、ごくりと喉を鳴らした。
歓喜と緊張に震えた手で、まず童女の足袋裏の汚れを払い落とし、そのちいさな足に脱げた草履を履かせる。
だが、童女は労いの言葉を掛けるでもなく、眼の端に吏鶯の姿を映した途端、無情にも僧侶たちを押し退けて駆け出してゆく。
その場に取り残された僧侶たちは、それぞれに不満と失意の声をちいさく挙げる。中でも童女の関心を浚った吏鶯に対する不満は、先程の僧に対するそれとは比較できない程の嫉妬と羨望に満ちており、果ては殺意すら込められていた。
「吏鶯っ」
童女は端正な横顔の青年僧を呼び止め、振り向いた吏鶯の足に抱き付いた。本音を言えば、胸に飛び込んで行きたかったところだが、いかんせん背が足りなかった。
「どうかされましたか? 確か、他の僧侶たちと鞠遊びのはずだったのでは?」
「そなたのほうが良い」
やや困惑げな吏鶯の問いに、童女は顔を上げて、艶の帯びた声で答える。
先程の僧侶たちならば、己ひとりだけに向けられた極上の微笑みに、顔の筋力を緩めずにはいられないに違いない。だが、吏鶯の表情は微かに曇るだけだった。
「それでは私がいじめられます」
遊郭の妓女も顔負けの色香を発した童女に、臆することなく淡々と言葉を紡ぐ。
すると童女は、にいっと笑った。
「そなたをいじめる者が居れば、すぐにでも妾が黙らせようぞ」
暗に伝える不穏な気配に、吏鶯は首を横に振る。そして、厳しさを含む真摯な表情で童女を見下ろした。
「仏の教えにもありますが、境内であってもなくても、無益な殺生は堅く禁じられています。それにお忘れですか? 貴女のその不思議な力は、私以外の者の前では使わないとお約束なさったでしょう?」
黙らせると言う童女の言葉に含まれた物騒な申し入れを、吏鶯はこれまで幾度となく諭し、断ってきた。
童女にとって瞬きをするのと同じように、人ひとりの命を奪うことなど簡単であることを、吏鶯は知っていた。……だからこそ禁じねばならなかった。何しろ童女は吏鶯に反発する者が現れる度に危険な遊びを思い付き、彼らに報復をするのだ。流石に吏鶯の願い通り命こそ奪わないが、別の意味での生き地獄を与えるのだ。
それもたった三歳の童女が、だ。
子供という者はある種の残酷さを持ってはいるが、この童女の持つ闇は底が知れぬ程に深い。
耳に痛い程、言い聞かせられてきた言葉に、童女は凶暴な笑顔を解いた。
「つまらぬ」
頬を膨らませる姿は疑うまでもなく子供のものだが、その内に潜む威厳と狡猾さは、遙かに子供の域を越えていた。
「貴女の為です」
実際のところ吏鶯は、異端者が遭うだろう迫害を案じ、憂いていた。
だが、尋常ではない成長の早さにたいして騒ぎが起こらないのは、童女の力の片鱗なのか──。
またその一方では、童女という個をとことん突き詰めるとどのような真実があるのか興味こそあれども、それ以上がとてつもなく恐ろしくなる時がある。ならば、かなり無理矢理でも、風変わりな人間の子供と結論付けなければ、心の平安は保たれない。
「そんなもの」
嘲りの笑みを零す童女は、ちらりと吏鶯を一瞥する。
「妾の為などと可愛いことを言うが、真実ではあるまい」
言葉を失う吏鶯に、童女はにいっと笑った。
魂をも喰らいかねないその笑みに、思考が吸い込まれる感覚に陥る。
心の奥を覗かれたのだと、経験上悟らずにはいられなかった。
「椿姫」
咎める声音になるのを抑えられず、吏鶯の口から童女の名が零れ出る。
「多少の不自由も、そなたの為に我慢していると思えば、苦にはならぬ。だが、そなたが相手なら、少しくらい羽目を外してもよかろう?」
譲渡しているのはこちらだと言わんばかりに、嫣然と微笑んだ。
その微笑みが吏鶯の目を奪う。
「……結局、私をいじめているのは貴女ですか」
意図しながら他の僧侶たちを魅了し、切り捨てる。彼らの感情を煽り、吏鶯にむけさせる。そうした上で、吏鶯の反応を窺うのだ。助けを願うか否か。いや、ただ単に吏鶯の困った顔を眺めたい為にか。……どちらにせよ、楽しんでいることは明白だった。
吏鶯は溜め息をつく。はっきりと徒労が色濃く見える表情に、童女は満足げにくすりと笑った。
「しかしな、そなたが願うならば、我が力、存分に奮ってみせようぞ」
「願いません」
「とは限らぬ。いつぞやかの公家の来訪時は、珍しく気が乱れておったえ?」
ぴくりと、形の良い吏鶯の眉が引きつる。
「ほれほれ」
楽しげに笑う童女に、吏鶯には珍しく険の帯びた眼差しを向けた。
「貴女に千里の眼が備わっていらっしゃることは承知しております。ただ、事を荒立てないでいただきたい」
「……つまらぬ」
ぴしゃりと撥ねられ、何度目かの不服げな呟きに、いつもの覇気が感じられない。
しゅんとなった可愛らしい様子に、吏鶯は無意識に頬を緩めた。
「物騒な事をおっしゃらなければ、良い提案をさせていただきます。今、私の手は何も持っておりません。もしご希望であれば、お部屋まで抱いて連れて行くことができますが?」
「勿論、希望する」
眼を輝かせて両手を伸ばした童女を片腕に座らせ、もう片方の手でちいさな背中を支えて歩き出す。
にこにこと上機嫌な童女の顔が次第に大人っぽくなり、艶が増す。
──おかしい。
首をひねった吏鶯に、嫣然と微笑む椿姫が腕を回してくる。
──これは、夢?
ああ、と納得した瞬間、浮上する意識。
(…………っ!?)
微かな鳥の囀りに、吏鶯は目を覚ました。半身を起こしたものの、しばらく夢の余韻が抜けず、ぼうっとなる。
ふと、己の腕中に椿姫の姿がないと知ると、にわかに慌て出した。
軽い喪失感に苛まれ、まだ深い眠りにつく寺内を捜す。白の単衣に生地の厚い羽織りを肩に掛けた吏鶯は、冷たく凍る板廊下に出た。
寺が山裾近くにあるせいなのか、春の冷え込む明け方は、よく白い靄が立ち籠もり、辺り一面を覆い尽くしてしまう。
吐息が形となって現れ出るも、たちまち大気に吸い込まれてゆく。視界を遮るような薄靄の中、吏鶯の歩みが止まった。
そして息を飲む。
(まるで夢の続きのような光景だ……)
眼福とも呼べる光景が、吏鶯の目に映り込んできたのだ。
本堂と北書院前の回廊に挟まれた中庭には、椿の木が三本並んでいる。いずれも八重の大輪の花が咲き乱れると圧巻なのだが、まだ蕾は堅い。
その椿の庭に、ひっそりと佇む椿姫がいた。白い単衣姿に、裾の長いたっぷりとした豪奢な白錦地の小袖を羽織る姿は、どこか儚く見える。
気付けば、彼の姫の周りには、花開いた椿が幾つも落ちていた。枝に宿る蕾はまだ堅いというのに、くっきりと華やかな色彩で開いた花が、確かに落ちていた。
ふと、手のひらに乗せていた花を地面に落とした椿姫を見て、吏鶯はちいさく納得する。
(……ああ、そうか。ああして花の蜜を食されていたのか)
ここ最近、花の蜜を好んで口にしていることを聞いてはいたが、実際にどうやって摂取しているのか見たことがなかったのだ。
一際おおきな蕾を摘み取り、手のひらに乗せた後、密やかに息を吹き掛ける。
堅く閉じきっていた蕾は、肉厚な花弁が重なり合ってできた白地の宝珠となり、ふくふくとした花容を形作った。やがて宝珠がほぐれて、桃紅色と淡桃色の縦絞りが美しい花弁が現れ、花芯には愛らしい黄色の筒しべを覗かせた。
花開く勢いの良さから、椿姫の手のひらから花弁が何枚か零れ落ちてゆく。
そして、咲き開いた花に唇をよせて蜜を吸う佳人の艶のある仕草が、吏鶯の目を釘付けにする。
満足げに綻ぶ顔は、先刻見ていた夢の中での童女の頃と変わらずに愛らしく、清廉でありながらも淫靡な翳があった。
再び伸び上がる優美な指先が、枝にある八重椿の蕾を手折る。花開いた花を口元に寄せ、陶然と目を細めた椿姫が舌で蜜を絡め取ってゆく。
凄惨なる魔性の色香に、吏鶯の背筋が凍り付く──。
「なにを呆けておる」
くすりと笑う椿姫に、吏鶯はたっぷりと時間を掛けて見惚れていたことを知る。椿姫の周りに点在していた花の残骸は、いつの間にか姿を消していた。
「……お食事を邪魔してしまいましたか?」
「もう済んだ」
抱き上げておくれと、椿姫の無言の願いを叶えるべく、吏鶯は回廊の窓梁に左手で支えながら上体を屈ませ、佳人の身体を片腕で抱き上げる。
自ら吏鶯の首に飛び付くように腕をまわした椿姫は、おかしそうに笑う。
困惑げに顔を曇らせる吏鶯の首から、腕を解いた後もしばらく続いた佳人の笑み。
昔の夢を見たせいか、吏鶯は無邪気に笑う椿姫を見詰めながら頬を緩ませた。
「先程、貴女の夢を見ていました」
「妾の夢?」
ようやく笑い収まり、長い裾衣を扇ぎ直していた椿姫が興味を示してきた。
「貴女が他の僧侶たちと、鞠遊びをなさっていた頃です」
「その若さで、もう昔が懐かしいか」
やや呆れたようなに呟くが、微笑む椿姫はどことなく嬉しそうにも見える。
「懐かしむというよりも、貴女との思い出が鮮烈に刻み込まれているせいか、色褪せもせず、寧ろ溢れ出てきてしまうのです」
「驚くべき口の滑らかさよ。あの頃と比べて格段に達者になったものよのう」
佳人は喉奥を鳴らしながら笑う。
「本心を伝えているだけです」
「よくも言う」
蕩ける笑みを浮かべる椿姫を、吏鶯は眩しそうに目を細めた。
「……ああ、間の悪い」
悪戯が見つかったかのように、ちいさく舌を出した椿姫が、吏鶯の背後を指差した。
「吏鶯、そんなところでどうした?」
背後から掛けられた第三者の声に、肩を僅かに揺らした吏鶯は、ゆっくりと振り返る。その顔に動揺の影は微塵もなかった。
「いえ、ただ単に、目をさまそうと歩いていただけですが?」
既に僧衣に身を包む年嵩の僧侶が、怪訝な顔で吏鶯をみていた。
「そうなのか? ……まぁ、いいが。それよりもうすぐ朝のお勤めの時刻となる。皆、本堂に集まり始めているぞ。吏鶯も支度を急いだほうがいい」
「ええ、そうします」
短く答えた吏鶯は、それでもまだ不審げに顔を顰める仲間の姿を見送った。
不思議なことに、人の目覚めの気配が漂い始めると、冷たい朝霧に温もりが帯びてゆく。
それまで意識していなかった自身の身体の奥から沸き立つ熱い血潮にも感じ入ってしまう。
我に返り、椿姫を顧みるが、当然その姿を見い出すことは叶わなかった。それでも微かに残る魔の気配に安堵した吏鶯だったのだが、自室へと戻る途中、嫌な胸騒ぎが胸中に広がるのを止められないでいた。
(……そうだ。花の蜜を食し始めたのは、つい最近のことだ)
はっとして振り返った先には、無数の蕾を付ける三本の椿がある。
三名椿とも世に誉れる豪奢な花を咲かす樹木が──。
(彼の姫は、椿の化身)
己の分身たる椿の花から糧を得る行為に不審は見受けられない。しかし、訴え掛けてくる違和感が払拭しきれないのは何故だろうか?
(何故、今になって花の蜜から糧を得る? 私から奪うだけで済むはずなのに──)
ここ最近、交わり以外で精気を分け与えていない事実に思い至る。
(──何故?)
徐々に薄れゆく朝霧の中、喚鐘が幽玄と響き渡る。
心の奥底にまで楔のごとく打ち込まれる鐘の音は、吏鶯の胸を酷く掻き立てさせたのだった。




