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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
弐、 夢寐《むび》の狭間
20/47

 1

 本堂は瓦葺きの仏殿と銅板葺きの拝殿からなっており、二棟になっている屋根は、内側でひとつの空間になっていた。

 堂内には本尊阿弥陀如来坐像が煌びやかに座し、その下段に設けられた須弥壇しゅみだん──よく磨かれた板壇の上には、花だけを切り取られた二十五の生花が並べられている。まるで合わせ鏡のように、花の姿が板壇に滲んで見えた。

 こうして整然と並べられた二十五の生花のひとつひとつが、菩薩をあらわしているのだと言う。

 だが、自然の状態から花だけを切り落とすとは、無益な殺生を禁じる仏道に反した残酷な行為だとも言える。しかしその残忍さこそが、己を捨てて仏の元へ導かんとする花の姿に感謝の念が生まれ、祈りの純粋さが磨かれるのだと言う。

 そして、須弥壇の真上に広がった独特な丸みのある蛇腹天井もまた、この本堂の特徴のひとつだろう。その名の通り蛇の腹のような模様がいかめしく、見上げる者すべてに、まるで蛇の胎内に納まったかのような錯覚を与えるのだ。


 ──花も含めたこの空間は、境内の中で最も清浄とされている聖域だった。


 鏡のように磨かれた壇からもう一段下がれば、何十という畳が続いていた。その畳の上に、住職を筆頭に幾人ものの僧侶たちが均等に並び座して、木魚もくぎょを傍らに読経を合わせていた。

 ぴんと張り詰めた薄寒い空気の中、経を読み上げる声が幾重にも重なり響き渡る。

 幾つもの灯りが幽玄と揺らめき、僧たちの横顔を染め上げていた。


 くすくすくすくす……


 よく聞き知った笑い声にこうべを上げた吏鶯の目に、白く細い指先で須弥壇の花を爪弾つまびく椿姫の姿が映り込む。童女のようにはしゃぐ彼の姫の姿に頬を緩めた。

 隣に座わる僧がそれに気付き、吏鶯の視線を追うけれども、特に何かがある訳でもない普段通りの光景が広がるばかりだ。奇異きいな目を吏鶯に向けてから再び視線を下げ、読経を続ける。

 吏鶯もまた、彼の顔を横目にちいさく笑った。

 ──何度も確認してきたことだ。

 住職を始めとした僧侶たちから椿姫の記憶が消え失せたばかりか、花で戯れる姿でさえ見ることが叶わない──それもこれも皆、椿姫が持つ不思議が成した結果だった。

(……それなのに、あの男には見えていた)

 新選組三番隊組長、斎藤一。

 壬生狼みぶろの中でも屈指の剣客と名高い男。

 京の町を警備すると言っても、高々人斬りのならず者集団のひとりだと思っていた己の考えを、改めなければならないだろう。

 そう、あの男は椿姫が見えていた。畏怖を孕んだ目ではあったけれども、はっきりと見据えてさえいた。そして、初めて椿姫が傷付けられた。否、傷付けることが出来た唯一の男でもある。

 不死であろう妖の身であるはずの椿姫が、只人ただびとの技によって血を流す姿は、吏鶯の思考と全身に強烈な衝撃を走らせたのだ。

(あの男は危険だ)

 本能で悟った。……斎藤一という男が抱える闇の深さに。

 ふと、椿姫と視線が合う。

 とろけるような微笑を湛えて壇から降り立つと、吏鶯の元へまっすぐに向かってくる。僧たちを避けることなく進む姿に慣れているにしろ、時折ひやりとなることがある。

(……何故ぶつからないんだろう)

 敢えて訊ねたことのない疑問を脳裏に浮かべながら、他の僧侶たちに混じり読経を続けた。

 己ひとりが取り乱した姿を見せれば、周囲から奇怪と捉えられる可能性が充分にある。そう思われても椿姫が何とかしてしまうのだろうが、こちらからわざわざ騒ぎを起こす訳にもいかない。

「そなたの読経は耳に心地良く響く。まるで天上の歌声のよう」

 そう言い終えて、吏鶯の背後に座り込み、背中を抱き込むようにもたれてきた。

しばし耳を傾けようぞ」

 辛気臭い僧侶たちの読経でも、吏鶯の口から零れるそれは充分聴き応えがあった。また、頬を擦り寄せば、背中を介して聴く声に深みが増し、まるで子守唄のように包み込んでくれる。

「椿姫」

 あれからどれだけ時を経たのか、呼ばれるままに顔を上げれば、苦笑混じりの吏鶯の顔がこちらを見つめていた。周囲を見渡せば、いつの間にか他の僧侶たちの姿はなかった。

 改めて吏鶯の顔を見返した椿姫は、読経が終わった後もしばらくこうしていたのだと、容易に察することができた。

 やわらかな微笑が、佳人の口元を彩ってゆく。

「まこと、そなたは可愛い」

 何度も耳にするその言葉に、吏鶯は苦笑を零す。

「……よくそう言ってくださいますが、とても自分が可愛いとは思えません」

 ひとつきりになった灯りに照らされた吏鶯の端正な横顔を愛でながら、椿姫は笑う。そして、肩越しに振り返っていた吏鶯の頬に手を伸ばし、小鳥が啄むように唇を奪っていった。

「不思議なことよ……」

 存在自体が不思議の権化である椿姫の、思わず零れ落ちたとわかるその呟きに、吏鶯は目を瞬かせた。

「貴女にも不思議だと思われることがあるのですか?」

「何、おかしいとでも?」

 やや不穏気味に微笑んだ椿姫は、くつりと喉をひとつ鳴らすと、吏鶯の首筋に歯を立てた。

「痛っ」

 甘噛みではあったけれども、突然の行為に心底驚いた吏鶯は、非難の色濃い悲鳴を短く発した。


 くすくすくすくす……


 椿姫の笑い声が吏鶯の耳朶じだ深くに響き渡る。

「憎らしい口を叩くから、仕置きしたまでのこと」

「では、貴女が不思議がることとは、どんなことですか?」

「教えぬ」

 つんっと顔を背ける椿姫の様子を見るに、どうやら機嫌を損ねてしまったようだと、吏鶯は自身の短絡さを悔いた。しかし、彼の姫の仕草から猫の気紛れさを連想させられもして、頬が緩む。

 ると、そっぽを向いていた椿姫が、こちらを振り返ってきた。妖艶な耀かがやきをその眼に宿し、にぃっと笑う。意識だけでなく、魂をも奪われかねない、そんな危険な笑みだった。


 吏鶯の脳裏に焼き付いた情景がある。


 赤子姿の椿姫との出逢いの日を、いつでも克明に甦らせることができてしまう。

 それだけに、あの日赤子を抱き上げた時に走った感覚。……絶対的な恐怖と安堵感。

 いつものように試すような眼差しを投じてくる椿姫の美貌を見つめながら思うのだ。

(……覚悟はできている)

 だが、椿姫と過ごした月日が優しく胸を締め付ける。


 ──この、名前がつけられない感情は何なのか。


 本尊阿弥陀如来坐像や、その脇に佇む勢至せいし菩薩坐像、開山法然上人立像の眼差し中、吏鶯は自ら椿姫の赤い唇を塞ぐ。

 強く深い口付けは熱を帯び、吏鶯の五感すべてを痺れさせた。


 くすくすくすくす……


 椿姫の艶の帯びた笑い声が、静寂の中、響き渡る──。

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