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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
壱、 迎春の宴
18/47

 13

  ……ザァ…………ッ



 雪の気配が潜む冷たい風が斎藤の背後へと吹き抜けてゆく。

 腕で顔へ庇うも冷気が眼孔に触れる為、目をすがめさせた斎藤は、庭園らしき場所に足を踏み入れてしばらくした後にようやく目蓋を上げた。

 すぐ目の前には池があり、氷が張って雪が乗っている。だが、池の中心に掛かるちいさな石橋付近では、その氷も溶けて陽に反射する水面が覗いてもいた。そして更にその奥へと視線を投じた斎藤は、身体を硬直とさせた。

 滝のように流れる艶やかな黒髪に、長振袖に白色のぼかしが細かく入った海老茶色の着物を身に着けた女の後ろ姿が、斎藤の目に鮮やかに飛び込んできたのだ。

 つと、女が首を巡らす。

 振り向いた女の美しさに、斎藤は言葉を失った。

 白磁の肌に掛かる長い睫毛や節目がちな眼差しには、品の良さだけでなく、壮絶なまでに艶がある。

 睫毛に隠れていた黒曜の瞳がひたっと斎藤を捉えた。艶のあるその仕草よりも、眼光の鋭さにたじろぐ。

 確かにこちらを意識しているとわかる相手だと言うのに、生身の人間らしい温かさが感じられず、妙な胸騒ぎを起こさせる圧迫感──存在感があるのだ。

 それでも腹に力を込めて女の眼を見据えれば、意外なことだと言わんばかりに眼を見開き、にこりと微笑みかけられる。そして少し体勢をずらし、傍らにいる僧に何事かを囁くのを見た。

 その時になって斎藤は、僧の存在に初めて気付いた。普段ならば犯さない失態に愕然となる。

 斎藤の動揺を余所よそに、胸元をはだけさせ、女の足元にひざまづいていた僧が、女の囁きを耳元で受けてこちらへと視線を向けてきた。

 自然、斎藤と目が合う形となる。

(……俗気のない澄んだ目をしている)

 また、妖者の虜となっている者とはとても思えない静かな佇まいにも驚く。

(何者だ、このふたりは……)

 異質な存在感を持つ男女に心底戸惑っている。

 僧に気を取られていた隙に女の姿を見失い、はっとなった斎藤の眼前に、僧のゆったりと微笑む顔が現れる。

 一瞬にして斎藤との間合いを詰めてきた僧は、存外優男風で、背丈も長身の斎藤より多少届かないにしろ、十分に背が高い。歳の頃は斎藤よりやや若い。二十歳にも達してはいないだろう。

 しかし、醸し出す存在感はただ者ではない。

 冷静沈着さを窺える眼光の強さ。研磨された麗質とでも言うのだろうか、身体の内から滲み出る品格の良さ。無論、所作にも無駄がない。

 僧侶というより、親交のある会津藩主のように、一筋通った君主のような威風を感じるのだ。

「この寺に何か御用でしょうか」

 いつの間にか整えられた僧衣で、青年僧は声を掛けてきた。生身の温かさが感じられる声音に、斎藤はようやく安堵する。頭のどこかで、魑魅魍魎の類ではないかと怪しんでいたことがおかしく思えた。

「……いや、これと言う用はないが、ここの椿の評判を聞いてきたんだが──」

 続く言葉が見つけられず口ごもる斎藤に、青年僧は口元に笑みを刻んだ。

「そうでしたか。確かに、ここへいらっしゃる途中にあった落ち椿が有名ですが、我が寺の中庭にある三本の椿もまた格別な美しさですよ。開花にはまだ早いのですが、よい機会ですのでわたくしが御案内致しましょうか?」

「……いや、今回は遠慮しよう」

 話せば話す程、最初に抱いていた青年僧の印象が薄れてゆく。

「残念ですね。満開の際には、是非当寺へお越しください。一度ご覧になれば二度と忘れる事ができないくらいの美しさですよ」

 品良く礼をして本堂へと戻る途中、僧が振り返る。

「椿姫が興味を示した者として、わたしの知るところ貴方あなたで二人目です。……どうかご無事でお帰りください」

 先の対応との違いがあるとしたら、青年僧が使う一人称と、醸し出す雰囲気だろう。

 軽く驚いているのだろうか、それとも戸惑っているのか、けれど心配気にこちらを案じているように見えて、敵視──嫉妬でもしているような態度が気に掛かる。

 椿姫と呼ばれるあの女が、彼をそう駆り立たせていることはまず間違ないことだ。

 腹を据えて、青年僧の目を見据えた。その言葉の真意を探ろうとする。

「ひとつ訊ねたい。共にいたあの女はどこへ消えた? ……いや、俺が知りたいことは別だ。あの女は何者なんだ?」

 心なしか目を見開いた僧は、たっぷりと微笑んだ。それはどこまでも俗世とはかけ離れた白濁透明な笑み。

「では、本当に椿姫の姿が見えたのですね。稀有けうなおひとだ」

 ひとしきり感心していた彼は、浮かべていた笑みを消した。

「私の名は吏鶯りうと申します。……どうぞお見知り置きください」

 挨拶と共に細められた目に、一介の僧には縁のないはずの殺気だった眼光がちらりとぎる。

 斎藤の意志に反し、自身の肌が粟立つのを覚えた。

「貴方様の御名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「……斎藤一だ」

 有無を言わせない、静かなる迫力に押され、斎藤は名乗る。

「流石は新選組三番隊組長と名高い斎藤様ですね。良い目をお持ちだ」

 偽名を使うことも考えた。だが、結局はそのまま伝えていた。けれど、自分の名が京都の人間に対してどれだけ効果があるかを知っているだけに、あっさりと頷き返すだけの僧に正直戸惑う。

 それは、再び微笑を浮かべ、ちいさく礼をして立ち去る吏鶯を引き留めることができなかったほどに──。

 答えもなくひとり残された斎藤はしばらく立ち竦む。

 肌を刺す冷たい風に擦れ合う木々のざわめきが、やけに大きく聞こえた。


 くすくすくすくす……


 はっと我に返った時、身体中がじっとりと汗ばんでいることに気が付いた。

(……おかしい。気が鈍る)

 ゆるく頭を振った斎藤は、地面に根付いたかのような足を動かし、ゆっくりとだが踵を返す。気を抜けば気怠い誘惑に足元を掬われ、狂気に身を投じたい衝動に駆られてしまいかねない危うさがあった。

 背中に鋭い視線を感じながら、表情硬く、雪と花で埋もれた石段を降りてゆく。


 くすくすくすくす……


 再び聞こえてきた──否、執拗に追い掛けて来る笑い声に、斎藤は目を閉じて息をちいさく吸い込み、振り向くと同時に抜刀した。

 剣圧に煽られ、雪の上に落ちていた椿のこうべが転がる。


 一瞬だけ、大気が凍り付いたかのような音がした。


 ゆっくりと白い息を吐き出した斎藤は、剣を鞘に納めると、再び石段を降り始める。

 ──幻聴は聞こえてこなかった。

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