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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
壱、 迎春の宴
17/47

 12

 肌寒い早春の外気が頬を撫でる。

(花の匂いが……)

 冷たく透き通った大気に、ふくよかな香りがゆったりと漂っていた。

(……やめるか?)

 戸惑いが生じたのは、この時初めて己の行動に気恥ずかしさが湧いて出たからだ。

 だが斎藤は、引き返すことなく歩を進めた。どこか意地のようなものが、後退を良しとしなかったのだ。

 両端に雪が厚く残る短い石段を登り、総門を通ると、続く石段が左へと折れる。山門さんもんまで延びるゆるやかな石段の参道が視界に広がっていた。

 背の高い木々が左右に立ち繁り、天井近くで交差するように覆い被さっている。その木々の中には藪椿も混じり、目にも鮮やかな色彩を放っていた。しかし、頭上だけではなく、地表の景観も息を飲む程の美しさがある。

 雪が多く残るなだらかな石段の参道いっぱいに椿の花がちりおち、何人なんびとも踏み入れさせない威圧感があった。

 詰めていた息をゆっくりと吐き出した斎藤は、雪と椿の花に足を滑らせないように、注意深く踏みしめて登る。石段もところどころ雪が溶けている場所があり、石肌が濡れて黒く艶を放っている。

 落ち椿が有名だと聞き知ってはいたが、見事なものだった。

 石段の肌を覆い尽くす雪の上に散る、花弁の鮮やかな暗赤色と雌しべの黄色の斑点。眩暈すら起こりそうな色の圧倒的な存在感に、感嘆の溜め息が零れ落ちる。

 知らずと斎藤は立ち止まり、空を仰ぐ。ところどころに雪を被った枝に、無数の椿が点在していた。

 その重みに耐えかねて、花がぽとりと降り落ちる。同時に粉雪も舞い落ち、差し込む陽の光に反射してちいさく瞬くのだ。

 眩しげに眺めていた斎藤はおもむろに身体を折り、一際ひときわ形色の良い椿の花を拾い上げた。

 骨ばった手のひらの中で、絹のような質感の花弁が何やらこそばゆい。

「……」

 己の手の内にある花を見下ろす斎藤の目が細くなる。しばらくした後、こぶしを開いたそこには、握り潰された花の残骸が残されていた。

 それ見て苦笑した斎藤は、自身で潰した花を足元に捨てると、何かを振り切るかのように歩を進めた。

 参道より少し小高いところに建つ茅葺きの山門の屋根も雪に覆われてはいたが、雪よりも深く根の張った苔の姿が、雪の下からちらりと覗いてもいた。その山門に立つと、初めて境内の様子がわかるようになる。

 まず目に付くのは、山門をくぐって石段を降りたすぐ両脇にある盛り砂だ。これもうっすらと雪が被さってはいたが、盛り砂の表面に刻まれた、渦巻きと波の模様を確認することができた。ぽつぽつと椿の花が添えられているのも風情があって良い。

 この盛り砂、白砂壇びゃくさだんは水を表している。参拝者がこの間を通ることで心身を清められ、本堂に入ることを許されるのだという。

 見下ろす白砂壇は五つ。

(身を清めさせるにしては御大層な出迎えだな)

 だが、はたして己の場合、その数で足りるだろうか?

 数々の決闘の光景が脳裏に浮かび上がり、苦笑をせずにはいられなかった。

 瞬間、斎藤の表情が緊張で強張る。

(何だ、この圧迫感。……殺気、いや違う!)

 嫌な胸騒ぎに背中を押されるようにして、柵を踏み越え、雪深い雑木林の中を駆け出す。

 初めて感じる異質な感覚に恐怖を覚えるより、その正体を暴きたいという好奇心が勝ったのだ。

(身体に触れる空気が痛い)

 柄にもなく緊張を孕んだ不安感が、胸中でちらりと過ぎる。


 異質さを感じた己の嗅覚を信じ、斎藤は雑木林を出た。

ネタバレ?な補足ですが、最初、斎藤さんが嗅ぎ取った花の香りは、椿姫の力の片鱗……要は結界とか、テリトリーに入ったんだよ~的な意味合いで書いてます。昔の作品手直ししても、なかなか上手く表現できません…。

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