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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
始、 椿姫
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 人生初めて完結まで書き上げた話を、改稿しながら投稿しています。歴史色が強いですが、浅い知識な上に、妖が出てくる不思議な話なので、強引にファンタジー枠にねじ込みました。

 史実と違うことが多々あります。不快に思われる方もいるかもしれません。創作のひとつとして、ご理解を賜りたいと思います。


(あっ)


 青年とはまだ呼べない若い僧が、廊下の真中で立ち止まった。

吏鶯りう、どうした?」

 後に続く僧が訝しげに声をかけると、零れ出た吐息が外気に触れて白く姿を現し、瞬く間に消え失せてゆく。

「……声だ。赤子の声が聞こえた」

「赤子の声だと?」

 どこか鼻にかけた薄笑いは吏鶯の真摯な表情に遮られてしまい、後続の僧は苛立たしげに舌打ちをひとつした。

「吏鶯、ここは寺だぞ。しかも、この真冬になんて、非常識だ」

「……あっ、まただ。また聞こえた!」

 諭すようでいて蔑んでみた僧は、真剣な面持ちを崩さない吏鶯の必死な声にまた笑った。そして呆れた顔で哀れんでみせ、「わたしには聞こえなかった」と、多少なりの揶揄を込めて言う。

 それと言うのも、気品さえ漂わせる秀麗な容姿と、仲間に対して一線を引いたまま崩さない吏鶯の態度に、常日頃から抱く嫉妬混じりの不快感がどうしても言動に色濃く滲み出てしまうのだ。

 その底意地の悪い響きを気にするでもなく、吏鶯は手にしていた写本の束を相手の胸元に押し付け、辺りを見回した。

「おい! 吏鶯っ」

「すまない。私の分も住職様に届けてほしい。空耳だとしても、この雪の下で泣いている赤子がいると思うと、確かめずにはいられない」

 明け方まで雪が降り積もった為、誰にも踏み入れられてはいない中庭に裸足のまま飛び降りた。昼中の陽差しを浴びたせいなのか、しゃりと音を立てた雪の鋭い冷たさに一瞬だけ躊躇する。

 だからこそ、まだ見ぬ赤子のことが酷く案じられた。

「おいっ、吏鶯! やめておけ!」

 馬鹿なことはするなと、制止する声が吏鶯の背中越しによく響いた。だが、それよりも優先するべきことは、先程聞こえた声のする方角へ足を向けることだ。

 方丈ほうじょうを右手に曲がるとすぐに視界を塞いだ薄桃色の山茶花さざんかの花。そしてその奥に広がる庭の白さに吏鶯は怯む。

 これより先へと踏み入ることを拒絶するかのように広がる雪景色に腰が引けたのだ。

 長年見慣れた庭だと言うのに、あたかも異界に迷い込んだかのような焦燥感だった。

 あれ程強く意識を引いた赤子の声は、ほんの僅かな音も吸い込んでしまうような雪庭と等しく鳴りを潜め、初めて吏鶯の胸中に迷いの影を落とす。

(あれは幻聴だったのか。いや、もしかしたら……)

 胸に去来する安堵と不安に顔を曇らせる吏鶯の耳に、再び赤子の声が聞こえてきた。



 ……オギャアッ……



 吏鶯の注意を向けるように、一度だけおおきく聞こえた声。その一声で疑心暗鬼が晴れ、雪深い庭を駆けた。

「吏鶯っ」

 正気を疑う仲間の声が飛ぶが、吏鶯は思い止まることはしなかった。池を越し、厚い雪の傘を被った鎮守社の階段を裸足で登る。



(ここか!)



 冬枯れした垣根をかきわけ、視界に飛び込んできたのは、昨晩降り積もった雪の下で咲き乱れる椿の古木の根元にそっと置かれた、錦地の真綿に包まれた赤子の姿。

 枝に乗る雪の重さに耐えられずに、時折散らす藪椿の花の姿。深い木々の隙間から差し込む陽の光に真白の雪が目に眩しく、だが肌を刺す冬の外気は重く沈む濃厚な気配を際立たせるばかりか、妖しげな艶めきをも帯びていた。

 はっと我に返った吏鶯が赤子を抱き上げると、ふわりと花の香りが立った。

 腕に抱く赤子の身体から香った花の匂いに、吏鶯の目が僅かに泳ぐ。例えばそれが移り香だとすれば、不可解なことがあるからだ。

 赤子が置かれていた場所に宿る古木の椿は、圧倒的な花姿を見せつけてはいるものの、香りを撒き散らしてはいない。

 そう、有香の椿など稀なこと。ましてやこれほどの甘やかな芳香を持つ花でもなかったはずだ。

 だが確かに甘い花の香りが、赤子の身体から漂ってくる。

 ちいさく泣きじゃくる赤子の白くやわらかな頬に人差し指を添えて撫でてやれば、赤子はぴたりと泣き止み、黒目がちな瞳で吏鶯を見上げて微笑んできた。

 純粋無垢なその微笑みに、つられて微笑み返した瞬間、粟立った肌に下腹部で帯びる熱。

(なんだ、この感覚は……)

 しばらくの間吏鶯は、己の赤く膨らんだ足裏の感触も忘れて、人肌のねくもりに安心したのか、寝息を立て始めた赤子の顔を見下ろしていた。

 赤子でも美醜がはっきりとでるのか、穏やかに眠る白皙の美貌に、吏鶯の胸中に広がる仄暗い予感をそっと噛み締める。

 何か、取り返しのつかないことを成してしまったのだろうか──。

 一種の脅迫観念に駆られはしたが、腕に抱き上げる赤子を手放すつもりなどなかった。それは打ち捨てられていた赤子に、己自身を投影したからに他ならない。


 遠くから聞こえた仲間の声に首を巡らせた吏鶯の背中越しに、椿の花がひとつ、軸から零れ落ちた。

 ぽとりと花が落ちる振動に、枝に積もった雪が粉状となって舞い落ち、陽差しに瞬くその光景は、先の妖しく艶めかしい雰囲気を失った代わりに、目に痛い程の清廉さで満ち溢れていた。 

行間を詰めてみました。

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