前編
彼女は、よく歌を歌っていた。
遠い異国の地の歌だと言う。
愛しい人へ
「リオナ」
「はい。」
「はい、じゃない。危ない。足下を見てみろ。」
「キレイなお花。」
「…そうじゃない…。」
「ふふ、知ってますよ。
すみません、少し呆けていました。」
リオナはよく笑った。
柔らかく、癖のない笑顔。
風が砂をさらう。
そんな味気ない大地に、牙を剥くようにガラスの破片が転がっている。
そしてリオナは素足だ。
もう少し慎重になっていてもおかしくない。
「ここの花は、懸命に生きているようですね。」
「…そうだな。」
乾き割れた大地にあるのは、石。
時々動物の白骨や甲殻類の虫も見かけた。
その間に、乾いた藻のような植物がはびこっている。
そして白く小さな花を咲かせていた。
リオナは長いスカートを持ち裾を上げる。
薄い生地はまとまりなく、バタバタと音を立てて風に揺れていた。
「風が…」
「ええ、強くなりました。」
「…。」
「…怒り…?」
「…‥。」
「帰りましょう、ルイ。ここは、じきに飲み込まれる。」
抱き寄せたリオナは強かった。
そっと俺の胸に手を置いて首を横に振る。
そしてまたほんのり笑みを浮かべ、身を翻してしまう。
白い素足は、さらわれていく砂に惑わされずに真っ直ぐ北へ向かっていった。
…
もうどのくらいだろう。
拠点とした洞窟に戻って、風のみの嵐が去るのを待って暫く経つ。
嵐が去り、そして砂埃が晴れた頃。
太陽はすっかり落ちていた。
…とは言っても、この土地には陽は射さないようだが。
しかし夜は良く晴れるようで、空には満点の星が瞬いている。
「やはり“激昂の君”…気性が荒いな。」
「…。」
「…これは一筋縄ではいかないだろう。」
「十分承知で参りました。
…さ、ルイ。そろそろ頂きませんか?」
差し出されたパンは、リオナが持参したものだ。
普通のものより長く保存がきく、固いパン。
受け取るとずっしりと重く感じる。
「ありがとう。」
「いいえ。…ルイのチーズ、美味しい。」
それからしばらくは他愛もない話をしたように思う。
魔術のこと、学園のこと。
ルマティーグの魔術士はそういうものだと思う。
お互い、決して大事なことは話さなかった。
…しかし俺たちは、話さなくても十分分かり合える。
少なくとも俺は、そう感じていた。
そうしているうちに俺たちは眠ってしまい、火の始末もしないままに夜を明かしてしまった。
ここへきて間もないが、こんなことは未だかつてなかった。
目覚めて焦ったが、何事もなく安堵する。
…
「参りましょう。」
「ああ。」
相変わらずリオナは裸足で出掛ける。
これは儀式の一環。
今となっては古いただのしきたりだったが、リオナも俺も重んじていた。
「明日まで続くと厳しい。」
「まだ今日で三日目だが?」
「限界なのです。今日で済ませてしまいたいと思います。」
「それは良い心構えだ。」
照れたような、どことなく自嘲するような笑顔につられて、俺も笑えた。
リオナは少し慌てたが、唇に繊細そうにできた指を添えて声に出して笑う。
俺はその手を取り、指に口付けた。
そしてそのまま指と指を絡め、俺たちは歩き始める。
リオナの歌をのせて風がただよう。
道なき大地。
永遠と広がる、砂と石と風に支配された世界を延々と歩き続けて。
…
ふと、時が止まったような感覚に陥る。
周辺の空気が重たく、昨日は通り過ぎていった風が避けているようにさえ思った。
この感覚を知っている。
ざわつく胸を抑え、リオナの後ろから、その姿と対峙する準備をしよう。
「私はリオナ。」
「あなたは?」
「彼はルイ。」
リオナが口を開き、間を置きながら言葉を発していく。
目は空を捉えている。
そこへ徐々に重たい空気が集まっていくのがわかった。
…密度の濃い、魔力。
それらが集結して象ったのは、人。
そう、俺たちが求めていたものだ。
“激昂の君”と呼ばれる嵐の精霊が、俺の前に姿を表した。
『私の名は、まだそなたらには教えられない。』
「はい。」
『見ていた。昨日もこの荒れた地にいたな。』
「はい。」
『歌を、歌って。』
「はい。」
『そなた、』
「っ…?」
突然その人型のものが俺を指差す。
攻撃の気配は感じないものの、もの凄い威圧感だ。
額に汗がにじみ出るのがわかった。
『この娘の歌の意味は?』
「…詳しくは存じ上げません。」
「ルイ…。」
「遠い異国のものと聞きました。」
『遠い異国か、笑わせてくれる。』
「…。」
『久々に聴いた、娘。』
「…はい。」
『お前は、運命を受け入れたのか。』
「はい。」
人型のそれが、ゆっくり微笑する。
そしてリオナを見下すように顎を上げ、深呼吸をした。
『そのか弱き両の足に似合わぬ強さ、気に入った。お前の運命を見届けてやろう。』
運命。
先から気になってはいたが、あの重苦しい魔力がまた広がっていくと息を飲むことさえ億劫になってしまう。
全身全霊で、その渦巻くものが消えるのを見届ける他ない。
リオナの身体に、まとわりつくように消えていった魔力。
最後は光を帯びて、リオナの髪をはためかせていった。
目が眩む程の強い光の風だった。
「ありがとうございます。」
「…っ…。
最後は…なんと?」
「“もう靴を履いても構わんぞ”…と。」
「…そうか。」
「…ルイ。」
真っ直ぐ見つめてきたリオナの瞳は、揺れていた。
その奥に、俺が歪んで映る。
「リオナ。」
「…はい。」
「行こう。」
「はい。」
リオナが歌う。
慣れない異国のメロディーに、理解の出来ない言葉を乗せて。
今日は、酷く切なく響いているように思えた。
…風に流れていく言葉を、俺は掴むことができないままだ。
「あ。」
「…雨だ。」
「近いですね。」
「ああ、急ごう。」
しっとりとまとわりつく湿度。
リオナの歌声が止んで、視界を包む霧雨が降り出した。
俺はマントを外し、広げてリオナの頭にかかるようにする。
この程度の雨であれば、これで多少防ぐことが来るだろう。
風は穏やかだ。
『ほう。』
「あら、出てきたの?」
「…。」
『この雨…餞別の代わりだそうだぞ。私と、お前に。』
「あなた、雨とも友だちだったの?」
『私は嵐の精霊。雨も一応は私の配下だ。』
「失礼致しました。」
『いや、良い。私は昔も今も、人間には暴風と呼ばれていた。あやつらには“暴君”と呼ばれたがな。
…お前がわからぬのも無理はない。』
「ふふ、暴風ですか。
雨は、あまり降らせなかったのですね。」
『ああ。私自身、この地には一滴も降らせておらん。』
「それは何故だ?あなたさえもたらせば豊かになるだろうに。」
『そなたには関係ない。…いつか…そうだな。気が向いた時、話してやろう。』
「…あ、りがとうございます…。」
「それにしても…素敵な雨ね。」
雨は止まない。
リオナは一言断って俺のマントから出ていく。
そして両手を広げて再び歌い出した。
切ないメロディーに乗せた言の葉が届いたのか、雨脚が強くなる。
嵐の精霊は袖に互いの腕を通し、目を閉じ、聴き入っているようだ。
『この土地は』
「?」
『もうダメなのだ。』
「…ダメ?」
『ああ。じきに海に飲み込まれる。』
「…。」
『私はずっと昔からわかっていた。この者たちも。』
嵐の精霊は…掬うように雨粒に手のひらをかざす。
水が溜まり、腕をつたって零れ落ちていった。
眉を僅かに顰め、しかし口許には微笑を浮かべるという奇妙な表情でそれを眺めている。
『花も。…これは大地の最期の力。』
「…そう、なのか…。」
『そうだ。生物の最期は美しい。…そういうものなのだ、覚えておくが良い。』
「…。」
雨粒に当てられて白い小さな花が踊っている。
大地も水たまりを広げ、拍手のように音を立てていた。
絶え間なく注がれる雨。
最期の雨。
強く、美しい。
それでいて…儚い。
頬を濡らした嵐の精霊は、足下から存在が薄れていく。
一層強まる雨脚に応えるかのように、リオナは歌い続けた。
…
「ただいま戻りました。」
「ルイ。…早かったな。」
「ええ。俺も、予想外でした。」
「激昂の君は、どうであった。」
「とても傲慢でした。ですがいい精霊です。
リオナが、契約を。」
「リオナ…!」
ガタンと音を立てて椅子が落ちた。
扉付近に立っていた使用人が、慌てて駆け寄り椅子を立て直す。
義父が立て直した椅子に倒れるようにしてまた腰掛け直る。
「はい。」
「リオナ=リロード…まさか…。
何故、何故お前が契約して来ない!リオナに先を越されたのか!」
「元々そういう約束でした。
…お言葉ですが父上、リオナも優秀な魔術士です。
師である父上から学んだ力が劣るとまでは思いません。しかし、俺にはないものを持っています。」
「…そうか、リオナが…そうか…。
もう…いい。休みなさい…。」
穏やかではない義父を見たのは久し振りだ。
昔、俺を指導していた頃に見た以来になるだろう。
どうやら酷く落胆したらしい。
あの有名な激昂の君と契約したともなれば、一躍高位の魔術士として名が馳せるだろう。
リオナはそういう名誉や富などといったものに興味はないようだが、背負うものは俺と同じ“名家”。
…由緒正しい魔術士の家系。
長子の名が知れ渡るということは、家の名が知れ渡るということだ。
義父の家に子はない。
俺は数年前この家の養子として引き取られた身だ。
だが、血はリオナにも劣らないといえる。
だからこそ引き取られたのだろう。
「失礼します。」
父母から受け継いだこの血も、義父に与えられたこの力も、俺は誇りに思っている。
すぐに巻き返すことを密かに誓って部屋を出た。
…
「激昂の君とリオナか。なんだか不釣り合いだ。」
「ああ、そうだな。」
「だがそうなると、私もうかうかしておれん。」
「ゲーテ、」
「なんだ?」
「俺は“宵の君”と契りを交わそうと思う。」
穏やかな陽気。
サアサアと揺れる木々の葉の音と、色とりどりの花壇の花に包まれた学園の小庭。
ゲーテと俺は手入れの施された小庭の砂利道を歩いていたが、ゲーテがゆっくり目を見開いて立ち止まる。
そして俺を凝視して目を瞬かせた。
「…君は馬鹿者か?」
「本気だ。」
「それなら大馬鹿者だ。」
「…。」
「…。」
「…本気なんだ。」
「だから、大馬鹿者だと言っている。
…激昂とは比較にならないぞ。」
「わかっている。」
「本当に…大馬鹿者だ。」
酷く呆れたように眉を下げると首を横に振り、やや前のめりの姿勢で俺の横を通り過ぎていく。
その早い足に慌ててついて行き、追いつくと歩幅が狭くなった。
「いつ経つ?」
「今週中には。」
「今週って…あと二日しかないぞ。」
「だから、今週中。」
また立ち止まると溜息をつく。
深く息を吸い、全て吐き出す程長い溜息だ。
「君は…なんと言うか…」
「馬鹿者、か?」
「大馬鹿者だ!
…そうではなく、抜けている…いや…違うな。」
「…。」
「とにかく、馬鹿者だ。」
「大馬鹿者ではなく?」
「ええい!細かい男だな君は!」
「…。」
「どうせ挨拶なしで行くのだろう?」
「今した。」
「だから!出発も明確にしないまま!いつの間にかいなくなるのだろうということだ!」
「…そう、なるな。」
「だとしたら今言わせてもらおう。」
ゲーテは真っ赤になった頬はそのままに、手で拳作ると唇を隠して咳払いをした。
昔はこんな感情の変化を他人に見せるような人間ではなかったと思う。
もっと堅苦しく、威圧を感じるような奴だった。
そんなゲーテが、今高ぶった感情を抑えて言葉を選んでいる。
「…まずは…知り合いとして、頑張れ。
友人として、気をつけろよ。
そして最後に…ライバルとして。
…死んだら、もしくは帰りが遅ければ、隙あらば、私はまたリオナに求婚する。」
王家・マルキスの長子であるゲーテ。
王族は代々長子に“威光の君”という精霊を受け継がせていると言う。
ゲーテも、呼吸を始めたその日にその精霊を受け継いだらしい。
…一度だけ見たことがあるが、神々しく、近寄り難い雰囲気を持った精霊だった。
昔ルマティーグを治めていたゲーテの先祖が精霊となったそうだ。
王家は存続が不可欠。
継ぐ者がいなければ、その家系は滅ぶ。
それは俺たち貴族も平民も同じだが、王家となると別格だろう。
その為かゲーテは10の時から相手探しをさせられ始めたと話していた。
とは言ってもゲーテ曰わく、父や祖父の知り合いの貴族の女が毎日代わる代わるやって来ただけらしい。
「君さえ、いや…私は、リオナが君を選んだから身を引いたのだ。」
「…ゲーテ。」
「その君がいなくなればリオナは…。わかるな?君なら。」
「ああ…。」
「リオナの幸せはリオナが決めるなんてことはわかっている。
だが、“自分と二人で幸せになりたい”と思うのが、男だろう。」
「…。」
そうは言うものの、ゲーテは決して卑怯な人間ではない。
隙あらば奪おうなどという、粗野な考えは持っていないはずだ。
だが、酷く重たい言葉のように感じた。
負担とは違う、重み。
圧力とも言い難い言葉。
真っ直ぐなゲーテの双眸は澄んでいる。
まるで見透かしているような瞳。
これが重圧だ。
言葉と瞳に隠れた感情を、俺は理解できるようで…できない。
「では、ルイ。また必ず会おう。」
「…ああ。」
学園での仕事を終えたゲーテは、真っ直ぐな瞳を残して去っていく。
振り返らない背中。
俺はゲーテの言葉が頭から離れず、その後に控えていた講義の内容も頭に入らなかった。