間章 月の女神
「スペードが大損をしたと嘆いていましたよ」
酒場から戻ってきたマスターが楽しそうに言う。
「何があったの?」
「拾った子供を奴隷商人に売ろうとしたら逃げられたそうです」
「奴隷……」
大人って汚い。
直ぐに子供を売ろうとする。
「カトラスAは嫌い。直ぐにそうやって子供を売ったり買ったりするもの」
「貴族なんてそんなものですよ。それに、彼は他の連中ほどは悪趣味じゃない。まぁ、買った女をいたぶって殺す趣味はあるようですけどね」
「マスター、玻璃様にあまりそのような話をしないでください。俺も不快です」
ジャスパーがカップを並べながら言う。
「ああ、貴方も奴隷出身でしたね」
「それが?」
「僕だって昔は奴隷だった時期もありますよ。けれども自力で逃げ出し、現在に至る。奴隷が逃げ出す話は面白い。いい気味だ。そう思いませんか? 貴方だってそうでしょう?」
「……俺は玻璃様にお救い頂いた身ですから」
ジャスパーはカップにお茶を注ぐ。
「玻璃様、本日のおやつは果物をふんだんに使ったケーキです。まだ、沢山ありますのでおかわりのさいはお声をお掛け下さい」
「うん。あ、ジャスパーも一緒に食べる?」
ジャスパーに声を掛ければ少し開け驚いて、それから笑う。
「では、お茶だけご一緒させていただきます」
ジャスパーは絶対に一緒に食事をしない。それが上下関係がどうこうって話になるみたいだけど、私には理解できない。
「ジャスパー、貴方はまるで玻璃の奴隷ですね」
「いいえ、俺は自主的に玻璃様にお使えしていますから奴隷ではありません。従僕です」
「……まぁ、貴方が満足しているなら僕は何も言いません」
マスターは溜息を吐く。
マスターは絶対にジャスパーの淹れたお茶を飲まない。
「飲まないの?」
「ええ、僕は結構です。いつ毒を盛られるか分かりませんからね。まぁ、殆どの毒には耐性がありますが」
興味がなさそうにそう言って、マスターは新聞を開く。
「何かあるの?」
「いいえ。何も。どうせくだらない記事ばかりですよ。ナルチーゾで水害があって人手不足の求人情報だとか、オルテーンシアの花火職人が行方不明になったとかそう言った興味を引くことも無い記事ばかりです」
マスターは溜息を吐く。
「カトラスAなんて消えちゃえばいいのに」
「玻璃、あまりそういうことを口に出してはいけません」
「……」
「返事は?」
マスターから軽く殺気を感じる。
直ぐにジャスパーがナイフを構える。
「……ごめんなさい」
「いい子ですね。貴女の言葉には一言一言に重みがあるのです。理解してください」
「……はい」
殺気を収めたマスターに頭を撫でられる。
けれどもジャスパーがナイフを仕舞う気配は無い。
「ジャスパー」
「……はい」
名前を呼べばつまらなそうにナイフを仕舞う。
「……マスター」
「何です?」
「こないだ、変なのを見たよ」
「変なの?」
「うん。変な音を出す生き物」
あれは生き物。
「変な音?」
「うん。死んでるのか分からなかったから声を掛けたの。人間みたいだったけど、言葉じゃない音を出すから生き物」
そう言うとマスターは少し考える。
「玻璃」
「なぁに?」
「もうその生き物には近づいてはいけません」
「え?」
「とても危険なものかもしれません。ジャスパー、様子を見てきてください。その生き物、もしかするとまだ近くにいるかもしれませんよ」
「……玻璃様のお傍を離れるわけには……」
ジャスパーは不満そうだ。
「変なの。ジャスパーも見て。絶対変だから」
あんな変なの初めて見たよと言えばジャスパーは少し困った顔をして、わかりましたとだけ言う。
「玻璃、変なものを見てはしゃぐのは止めなさい」
「はぁい」
今日のマスターはお説教ばっかり。
でも、あの変なの……カトラスAにも会ってるんじゃないかな?
そう思ったけど、マスターに言うのは止めて、ジャスパーの美味しいケーキを楽しむことにしよう。