本物の聖女が見つかって不要になったそうなので、取り敢えず魔王を倒して勇者を目指すことにした。
「本物の聖女様が見つかりました。ですので、メルヴェル様には、これからはどうかご自由にお過ごしいただきたく存じます。」
そう告げた高僧の額には、薄く汗が浮かんでいた。
季節は春で、窓の外には柔らかな陽射しが落ちている。応接室の窓も半分ほど開かれ、時折入り込む涼しい風が白いカーテンを揺らしていることを考えれば、決して汗ばむような室温ではない。
にもかかわらず、向かいに座る高僧は妙に暑そうだった。
メルヴェル・グランシア公爵令嬢は、しばらく無言でその顔を眺めてから、僅かに眉を上げた。
「それは、私が不要になったということでしょうか?」
「い、いえ! 決してそのような意味ではございません!」
高僧の肩が、目に見えて跳ねた。
どうやら少し威圧してしまったらしい。
別に怒っているわけではないのだが、メルヴェルは昔から人に怖がられやすかった。黒く長い髪に、切れ長の黒い瞳、濃い眉とすっと通った鼻筋。整っていると言えば整っているものの、可憐や優美という言葉とはあまり縁がない。
二十六歳になった現在では、黙って相手を見るだけで借金の取り立てでも始めそうな迫力まで加わってしまった。
聖女という役職には若干不向きな顔ではないかと本人も思っていたのだが、二十年も務めているうちに、周囲の解釈の方が変わった。
曰く、邪悪を射抜く聖女の眼差し。
曰く、魔王すら恐れる威厳ある御尊顔。
曰く、神の御心を代弁する厳粛なる美貌。
何事も長く続ければ、それらしい意味が付くものらしい。意味の方が後から追いかけてくるとは、人間社会というものは実に都合よくできている。
「では、どういう意味なのでしょう。先ほど、本物の聖女が見つかったと仰いましたね?」
「はい。そ、その……大司祭様に新たなお告げがございまして、予言書に記された真なる聖女様が、すでにお生まれになっていることがこの度判明したのでございます。」
「なるほど。では、私は本物ではなかったと。」
「ですから、そのような単純な話では決してございません!」
今度こそ高僧は椅子から腰を浮かせかけた。
随分と必死である。
しかし、本物が別にいるなら、自分は本物ではなかったというだけの話だと思うのだが、どうやら教会内部ではもう少し複雑な事情があるらしい。
もっとも、メルヴェルにはそれほど重要ではなかった。
彼女が聖女になったのは、六歳の時である。
ある朝突然、グランシア公爵家へ大司祭を筆頭とした教会関係者が大挙して押しかけてきて、「神託が下った」「この御方こそ世界を救う聖女である」と大騒ぎした。
父と母は泣いた。
兄も泣いた。
何故か教会の者たちまで感極まって泣いていた。
六歳だったメルヴェルだけが、ずらりと並んだ泣く大人たちを眺めながら、これは本人への意思確認なしに就業先が決定したということだろうか、と考えていた。
メルヴェルには前世の記憶があった。
現代日本という、この世界とは似ても似つかない場所で生まれ、学校を卒業して企業へ就職し、順当に仕事を増やされ、最後には職場で倒れてそのまま死んだ女の記憶である。
だから、六歳で突然「今日から聖女として教会で暮らします」と告げられた時には、児童労働という単語が真っ先に頭へ浮かんだ。
おいおい、労働基準法はどうした。
児童の権利は。
親の同意だけで本人の意思を無視してよいのか。
しかし六歳児に訴訟を起こす能力など当然なく、そもそもこの世界には労働基準法も児童の権利条約も存在しない。
仕方なく教会へ移り住んだ。
ところが実際に働き始めてみると、これが意外なほど快適だった。
朝は早いが、夜も早い。食事は三食出る。衣服も住居も保証され、病気になればすぐ医師が来る。定期的に全国各地を巡回するため馬車移動で腰が痛くなることはあったが、宿泊先はどこも一級品だった。
何より。
残業がない。
大切なことなので繰り返す。
残業が、ない。
つまり前世より遥かに労働環境が良かった。
仕事内容もそれほど難しくない。各地の教会を巡って人々の前で祈り、世界を魔王から守る結界を維持すると説明された魔力塔で儀式を行い、ついでに教会への寄付を呼びかける。王室行事へ出席することもあるが、基本的に求められるのは、祈ることと笑顔で手を振ることだけだった。
ただ一つ。
二十年経った現在でも、どうしても理解できないものがある。
聖力である。
司祭たちから、
「聖女様、どうか御力を。」
と言われ、教えられた通りに魔力塔の祭壇へ手を置き、目を閉じて祈りの言葉を唱える。
メルヴェルには、何も起きていないようにしか見えない。
ところが周囲では、何故か必ず歓声が上がった。
「おお……なんという聖なる光!」
「これほど強大な聖力は、歴代の聖女様の中でも類を見ません!」
「世界が祝福されております!」
六歳の頃には、本気で自分だけが何かを見落としているのだと思い、腕を裏返したり、自分の衣服を確認したり、鏡まで覗き込んだりした。
何も光っていなかった。
ビームのようなものが出ている感覚も、もちろんない。
「私には見えませんが。」
と正直に告げれば、
「ご自身のお力ゆえ、かえってお感じになれないのでございましょう……!」
と皆から盛大に担ぎ上げられる。
そんなものなのだろうかと疑問に思ったまま、二十年が経った。
未だに一度も見えない。
感じない。
時々、あまりにも禁欲的な生活を続けている司祭たちの頭の中にだけ、何か壮大な映像効果が発生しているのではないかと疑っていたが、本人たちは心の底から感動しているようなので口にはしなかった。
集団催眠も疑った。
しかし聖力以外については、皆それなりにまともなことを言う。
何はともあれ、祈れば皆が喜んだ。
寄付も集まる。
集まった金で孤児院や施療院も維持される。
ならば、この二十年はそれほど悪い仕事ではなかったのだろう。
そして今日。
ようやく本物が見つかった。
きっとその少女からは、自分にはなかったビーム砲のような聖なる光でも確認できたのかもしれない。
「新しい聖女様は、おいくつです?」
「十二歳になられます。」
「若いですね。」
「はい。伯爵家のお嬢様でございまして。」
「お可愛らしい方ですか?」
「え?」
高僧が目を瞬いた。
「顔です。民衆の前へ出る機会が多いのでしょう?」
「あ、はい。それはもう、大変愛らしいお嬢様でございます。」
「それは何よりです。」
少なくとも、自分のように黙っているだけで悪党のように見える聖女よりは、民衆も安心するだろう。
メルヴェルは少し考え、仕事の引き継ぎについて尋ねた。
「では、引き継ぎはいつにしますか? 全国の教会の担当者名簿と巡回時の注意事項はまとめてあります。北方第五教会へ向かう街道は冬季に閉鎖されますから、初回巡回は秋までに済ませた方がよろしいでしょう。それから西部大聖堂は寄付者との面会を詰め込み過ぎる傾向があります。十二歳なら一日三件程度までに制限を――」
「メルヴェル様。」
珍しく、高僧が途中で遮った。
「何でしょう。」
「もう、お仕事をなさらなくてよいのです。」
メルヴェルはそこで初めて、少し驚いた。
「本当に?」
「はい。」
「巡回も?」
「必要ございません。」
「塔の祈りも?」
「ございません。」
「寄付活動も?」
「もちろんです。」
「王室行事への出席は?」
「聖女としては、もうお願いすることはございません。」
「つまり、本当に何もしなくていい?」
「はい。二十年間、本当にありがとうございました。」
高僧は、何故か少し苦しそうな顔で微笑んだ。
「今後のお住まいや生活については、王家から改めてお話があると伺っております。もちろん生活の保障もございます。ですから、どうかこれからは一人の女性として、ご自身の幸せをお考えください。」
王家から新居や再就職先でも紹介してもらえるということなのだろうか。
そう解釈したメルヴェルは、ひとまずは頷いた。
しかし、自室へ戻る途中でふと気付いて、腕を組んだ。
そうか、自分は自由の身となったのか。
なるほど。
これは。
大変困ったことになったぞ、と。
◇
自室へ戻ったメルヴェルは机へ向かい、紙の一番上へ『今後について』と書いた。
その下に、考えられる進路を一つずつ並べる。
一、グランシア公爵家へ戻る。
これは早々に斜線で消した。
兄はとうに結婚している。義姉との間には三人の子供がおり、家督も安定している。二十年間ほとんど家にいなかった義妹が突然戻ってきて、「今日からここに住みます」と言い出せば、いくら義姉が良い人でも扱いに困るだろう。
二、結婚する。
これも消した。
相手がいない。
二十六歳にして、正式な社交界デビューすらしていない。聖女として王族や高位貴族と顔を合わせることはあっても、あくまで宗教行事の一環であり、恋愛相手を探すような場ではなかった。
同年代の知人すら数人しかいない。
三、修道院へ入る。
教会から教会へ移るだけである。
却下。
メルヴェルは筆を置き、腕を組んで目を閉じた。
六歳から二十六歳。
人生のほとんどを聖女として過ごしてきた。
別に嫌だったわけではない。前世の会社勤めと比較すれば、随分と恵まれていたと思う。
ただ、聖女という役割を突然取り上げられた途端、自分が何をしたい人間なのかが、さっぱり分からなくなった。
前世では働いた。
今世でも働いた。
どうやら自分は、働くことしかしていない。
何か一つくらい、聖女だったからできなかったことはないだろうか。
そう考えながら窓の外を眺めているうちに、ふと一つの単語が頭へ浮かんだ。
――魔王。
この二十年間、嫌というほど名前を聞いた相手である。
聖女が全国を巡って祈るのも、塔へ籠って儀式を行うのも、全ては魔王の力の拡大を防ぎ、世界を守るためだと教えられてきた。
ところがメルヴェルは、その魔王を一度も見たことがない。
話は散々聞いたのに、肖像画すら存在しないと言われてきた。どこにいるのかも知らないし、今何をしているのかも分からない。
二十年間も間接的に戦ってきた相手にしては、随分と一方的な関係である。
そこで、非常に単純なことに気付いた。
「……倒してしまえばいいのでは?」
メルヴェルは呟いた。
魔王がいるから聖女が必要なのだ。
ならば魔王を倒してしまえば、聖女という制度そのものが不要になるかもしれない。
そうすれば、新しく選ばれた十二歳の少女も、何十年も自分と同じ仕事を続けなくて済む。
世界は平和になる。
教会も寄付活動に奔走しなくてよくなる。
そして自分には、新しい仕事ができる。
随分効率がいい。
思いついた瞬間、メルヴェルの中で静かな闘志が燃え上がり、それまで全く見えなかった今後の進路が鮮明になった。
聖女を辞めた。
なら、次は勇者になろう。
素晴らしい。
これしかない。
◇
翌朝、メルヴェルは旅支度を始めていた。
動きやすい衣服を数着。金銭、保存食、地図、短剣、魔導具。勇者といえば剣を背負っている印象があるので一本くらい用意した方が見栄えはいいかもしれないが、メルヴェル自身は剣術など習ったことがない。
使えるのは魔法である。
しかも、かなり強いらしい。
以前、教会で魔力量を測定した際、担当していた神官が結果を見た瞬間、その場で気絶したことがあった。
後日、具体的にどのくらいなのかと尋ねると、大司祭は何とも言えない顔で、
「理論上は、王都を一つ消し飛ばせる程度かと。」
と答えた。
教会では大規模な攻撃魔法を使うことを固く禁じられていたが、身の内を巡る巨大な魔力の存在だけは、メルヴェル自身にも常に分かっている。
聖力など欠片も感じたことはない。
しかし魔力はある。
ものすごくある。
ならば魔王にも勝てるだろう。
会ったことはないが、不思議と負ける気はしなかった。
「炎よ出でよ」とでも言えば、それなりに出そうな気がする。
勇者らしく「ファイヤースプラッシュ!」などと叫んでもいい。
若干格好悪いかもしれない。
もう少し名称は考えた方がよさそうだ。
そんなことを真剣に考えていると、勢いよく扉が開いた。
「メルヴェル!」
振り返る。
第一王子アルヴィン・エルドレインが、肩で息をしながら立っていた。
二十歳。
メルヴェルより六歳年下で、二ヶ月ほど前に正式に立太子したばかりの王太子である。
淡い金髪に青い瞳、整った顔立ちをした青年で、頭もよく、性格にも大きな難はない。聖女と王族という立場上、幼い頃から様々な行事で顔を合わせてきたため、王族をそのように評してよいなら、メルヴェルにとって数少ない友人の一人だった。
「おはようございます。」
「何をしている!」
「荷造りです。」
「それは見れば分かる! どこへ行く気だ!」
「魔王を倒しに。」
「は?」
「この度聖女ではなくなりましたので、次は勇者を目指そうかと思いまして。」
アルヴィンは口を開いたまま動かなくなった。
珍しい。
この青年は幼い頃から頭の回転が速く、多少予想外のことがあっても、ここまで分かりやすく停止することはほとんどなかった。
「いや……待て。」
「はい。」
「待て待て待て待ってくれ。」
「反復が多いですね。」
「誰のせいだと思っている!」
どうやら相当混乱しているらしい。
「何故、聖女を辞めた翌日に魔王を倒しに行くんだ!」
「特にやることがありませんので。」
「暇だから魔王を倒しに行くな!」
「心配なさらなくても、私はかなり強いですよ。」
「知っている!」
メルヴェルは僅かに眉を上げた。
「私が負ける心配をしているのではないのですか?」
「……いや、違……いや、それもある。それもあるんだ。」
「どっちですか。」
「今はそこはどうでもいい!」
随分と様子がおかしい。
とはいえ、王族なら教会から聖女について何らかの情報を得ていても不思議ではない。もしかすると、魔王についても自分より詳しい可能性がある。
「ともかく、魔王討伐などやめろ。」
「何故です?」
「危険だからだ。」
「私がですか? それとも、もしかして魔王が?」
「……りょ、両方だ!」
妙な答えだった。
「ご心配ありがとうございます。それでは気を付けて行って参ります。」
「そうではなく、行くなと言っている!」
「しかし、もう仕事をしなくていいと言われました。」
「公爵家へ戻ればいいだろう。」
「兄夫婦に迷惑が掛かります。」
「なら王都に屋敷を用意する。そもそも王家がお前の今後の生活について話をする予定だっただろう!」
「そこで何をして暮らせと?」
「折角自由になったんだ。まずは自分の好きなことをすればいい!」
「でしたら、魔王を倒しに行って参ります。」
「どうしてそこへ戻るんだ!」
アルヴィンが頭を抱えた。
どうも話が噛み合わない。
「分かった。なら社交界へ出ろ。今まで聖女だったのだから、二十六歳で正式に出ても誰も文句など言わない。」
「何のために今さら?」
「そ、その……お前もいずれ結婚することになるだろう。そうなれば社交界との付き合いは必要になる。」
「結婚?」
「そうだ。」
メルヴェルは考えた。
必要性を感じない。
昨日、進路候補から斜線で消したばかりである。
「私は公爵家を継ぎませんし、結婚する理由がありません。相手も特にいませんし。」
「いるだろう!」
「誰ですか。」
「だから、その……。」
アルヴィンは何かを言いかけ、不自然に目を逸らした。
次いで、頬から耳まで赤くなっていく。
「……私とか。」
「はい?」
「私と結婚すればいい。」
メルヴェルはしばらく彼の顔を見つめた。
アルヴィンは視線を逸らしたまま、妙に困ったように口元を引き締めている。額には僅かに汗まで滲んでいた。
なお、メルヴェルには、その変化が何を意味しているのか一切分からなかった。
「……何故?」
「何故!?」
「どうしてあなたが選択肢に出るのですか? 私達は茶飲み仲間ではありませんか。」
「茶飲み仲間!?」
茶会や王室行事では大抵近くに座り、長年一緒に茶を飲んできた。
それなりに親しい間柄を表すなら、最適な表現だと思ったのだが。
「あなたは王太子です。」
「……そうだが。」
アルヴィンが警戒するようにこちらを見た。
「片や私は昨日聖女を辞めたばかりの、いい年をした無職女です。」
「公爵令嬢だろう!」
「二十年間ほぼ教会育ちです。神学と巡回実務ばかりで、王妃教育も社交界向けの教育も受けていません。」
「そんなものは今から覚えればいい!」
「必要ありません。私は一足飛びに出世して勇者を目指しますから。」
「どうしてそこへ戻る!」
「下剋上は万人の夢ですよ。」
「王妃は女性として最も高貴な身分だ!」
メルヴェルは内心で溜息を吐いた。
これだから俄かは困る。
「知らないのですか。勇者は物語の主人公ですよ。王妃など脇役です。」
「何の物語だ! ご婦人方が好む恋愛文学なら、王太子の隣こそ主役ではないのか!」
そこでメルヴェルは、はたと気付いた。
そうか。
この目の前の青年は王子だった。
王子と勇者は親和性が高い。
これは分が悪い。
このままでは、魔王を倒す勇者というせっかく考えた第二の人生を横から乗っ取られる可能性がある。
「兎に角、魔王討伐などという考えは捨てるんだ。」
「……。」
それにしても。
この王子、随分と必死である。
メルヴェルはようやく、少しずつ違和感を覚え始めた。
アルヴィンは昔から聡明だった。感情を隠すのも上手く、政治的な会話では父王より冷静なのではないかと思うことすらある。
それが、先々月に立太子してから妙に様子がおかしい。
以前より頻繁に教会へ顔を出すようになり、何かにつけてメルヴェルの予定を確認する。今日はとうとう、聖女を辞めた翌朝から部屋へ押しかけてきた。
メルヴェル自身ですら、昨日初めて処遇を伝えられたばかりだというのに。
「アルヴィン殿下。」
「何だ。」
「あなた、何か隠していますね?」
アルヴィンの顔が固まった。
片眉が、ぴくりと動く。
非常に分かりやすい。
こちらはアルヴィンが赤子だった頃からの付き合いである。何かを隠している時の癖くらい、とうに把握している。
侍従たちに内緒で教会へ忍び込んできた時も、メルヴェルをこっそり街の祭りへ連れ出そうとした時も、「偶然公務先が同じだった」と言い張って各地の巡回先へ現れた時も。
同じ顔をしていた。
子供の頃から変わらない。
「……何を。」
「聖女について。あるいは、魔王について。」
「……。」
「立太子されてからですね? 何か教えられたのですか?」
「……何も。」
「嘘ですね。」
「嘘ではない。」
「では、目を見て言ってください。」
アルヴィンは黙った。
完全に黒である。
「何を知っているのです?」
「……言えない。」
「では仕方ありません。自分で調べます。」
「待て!」
「魔王本人へ聞けば、何か分かるでしょう。」
「だから行くなと言っている!」
「では理由を。」
「それは言えない!」
メルヴェルは腕を組み、静かに頷いた。
「では行って参ります。」
「さっきから話が堂々巡りだ!」
「あなたが何も話さないからでしょうが。」
「私にも立場があるんだ!」
「私にはもうありませんね。なにしろ昨日から無職です。」
「だから王妃になれ!」
「先ほどから申し上げていますが、私は一足飛びに出世する道を選びました。」
「何故そこで勇者なんだ! 王妃でいいだろう、王妃で!」
段々と面倒になってきた。
メルヴェルは荷物を持ち上げた。
「では、ちょっくら行ってきます。」
「ちょっくらで魔王討伐へ行くな!」
「勇者の凱旋パレードの準備は頼みましたよ。」
「止めている人間に頼むな!」
「王都の大通りを使いたいです。花びらも撒いてください。」
「具体的にするな!」
「予算は王太子殿下の私費から。血税は使わずに。」
「誰が出すか!」
あらかた話は終わったと判断して扉へ向かうと、アルヴィンがその前へ立ちはだかった。
右へ避ければ右。
左へ行けば左。
「……邪魔です。」
「邪魔しているんだ。」
「王太子が元聖女の職業選択の自由を侵害してよろしいのですか?」
「その職業が勇者でなければ侵害しない!」
「仕方ありませんね。では魔王を倒した後に、また別の職を探します。」
「前提がおかしい!」
押し問答を続けた末、メルヴェルは深く溜息を吐いた。
全く同じタイミングで、アルヴィンも長い溜息を吐いた。
目が合う。
しばらく互いに黙った後、先に口を開いたのはアルヴィンだった。
「……お前がどうしても行くというなら、仕方ない。私も付いて行く。」
今度はメルヴェルが固まった。
「いやいやいや、待て待て待て待ってください。」
「反復が多いぞ。」
「あなたは王太子でしょうが。」
「君は聖女だ。」
「昨日までです。現在は無職です。」
「なら王妃候補だ。」
「いつ決まったんです?」
「今。」
「勝手に決めないでください。」
「勇者になるのも勝手に決めただろう!」
「私の職業ですよ。」
「なら私の結婚相手も私が決める!」
「私の意思も必要でしょうが。」
「だからこうして頼んでいるんだ!」
「随分強引な頼み方ですね。」
「誰のせいだと思っている! 私だって、こんな形で言いたくなかった!」
そこで、アルヴィンの言葉が途切れた。
青い瞳に、薄く涙が浮かびかけている。
綺麗だった。
何故泣きそうなのかは、さっぱり分からなかったが。
「勇者は二人も要りません。あなたに手柄を横取りされても困ります。」
アルヴィンは両手で顔を覆った。
深い溜息。
そして、先ほどまでとは少し違う、疲れたような声で言った。
「お前は二十年間、この国のために真面目に働いただろう。」
「仕事ですので。」
「知っている。」
返事は妙に静かだった。
アルヴィンは顔を上げ、少し困ったような、それでいて真剣な目でメルヴェルを見た。
「だから、もう少し自分のために生きろ。」
メルヴェルは一瞬考えた。
「いや、だから何度も言っていますが、自分のために勇者に――」
「違う!」
どうやら駄目らしい。
◇
二ヶ月前。
正式に王太子となったその日、アルヴィンは父王から王家に代々伝わる最高機密を聞かされた。
「聖女に、聖力などというものは存在しない。」
最初は聞き間違いかと思った。
立太子の儀を終えたその日の午後、国王と大司祭だけが同席する密室へ呼び出され、開口一番に国家宗教の根幹を破壊するようなことを告げられたのである。
「……今日、私は王太子になったのですよね?」
「そうだ。」
「何故その初日に、聖女制度が嘘だという話を聞かされているのでしょう。」
「王太子になったからだ。」
父王は平然としていた。
大司祭は、ひどく居心地が悪そうだった。
その後に聞かされた真相は、さらに予想外だった。
現在、この世界に魔王は存在しない。
そして魔王とは、そもそも魔族の王でもなければ、何処かに封じられた怪物でもない。
遥か昔、あまりにも膨大な魔力を持って生まれた一人の人間がいた。
その力を恐れられ、幼い頃から周囲より隔離され、ほとんど誰とも触れ合わないまま閉じ込められた。
強大な魔力は、同じ場所に長く留まり続けるほど持ち主の内部へ淀みやすい。
まして、人との交流もなく精神的に孤立した状態では、魔力と心の均衡が崩れる危険性が格段に高まる。
やがて、その人間は暴走した。
一つの国が滅んだ。
後世の人々は、その存在を魔王と呼んだ。
同じ悲劇を繰り返さないため、王室と教会が長い年月をかけて作り上げたのが、現在の聖女制度だった。
この世界には、ごく稀に、通常では考えられないほど膨大な魔力を持った子供が生まれる。
そうした子供を早期に発見し、「危険な存在」として閉じ込めるのではなく、「世界を守る聖なる者」として社会に受け入れさせる。
人々の尊敬と善意の中へ置き、孤立させない。
さらに全国を定期的に巡らせ、各地に設けられた魔力塔で余剰魔力を少しずつ土地へ逃がす。聖女本人には「祈りの儀式」と説明されているが、祭壇へ触れれば特殊な魔導術式が自動的に余剰魔力を吸い上げる仕組みになっているため、本人に特別な感覚はほとんどない。
そして、その保護と巡回に必要な膨大な費用を、信仰と寄付によって社会全体から賄う。
要するに。
聖女とは、魔王と戦うための存在ではない。
魔王を生まないための制度である。
だから、魔王はいない。
いないことこそ、この制度が機能している証拠だった。
アルヴィンは説明を聞き終えた後、しばらく何も言えなかった。
「……現在の聖女は。」
「メルヴェル嬢だ。」
「それは知っています。彼女の魔力量は?」
父王と大司祭が、一瞬だけ視線を交わした。
「歴代でも最大級にございます。」
「具体的には。」
「仮に完全な暴走状態へ至れば、王都程度なら一瞬で消滅する可能性がございます。」
アルヴィンは目を閉じた。
六歳上の女。
物心ついた頃から王室行事へ行けば、大抵そこにいた。
凶悪な顔をして、眠そうに祈っていた。
五歳の頃、「聖女様は何を祈っているのですか」と興味本位で尋ねたら、
「今日の夕食です。」
と返された。
八歳の時、「聖なる光とはどんなものなのですか」と聞けば、
「私にも分かりません。悟りを開けば見られる可能性があります。」
と言われた。
十歳の頃、長い地方巡回から戻った彼女へ「世界のためにありがとうございます」と声を掛けた時には、
「他にやることもなく暇ですから。友達もいませんし。殿下こそ、日々国民のためにありがとうございます。」
と平然と返された。
そんな女である。
「彼女は何歳から聖女を?」
「六歳です。」
「現在二十六歳ですね。」
「はい。」
「つまり二十年間?」
「はい。」
「六歳の子供を教会へ連れてきて、二十年間ほぼ同じ生活を続けさせ、同年代の友人もろくに作らせず、貴族令嬢としての教育も十分与えないまま、寄付まで集めさせていたと?」
「……制度上は、そのように。」
アルヴィンは大司祭を見た。
「何をしているんですか、あなた方は。」
「殿下、これには歴史的事情が――」
「制度そのものが必要なのは理解しました。合理性も分かります。しかし六歳の子供を成人後まで同じ仕組みへ置き続ける必要はないでしょう。」
そこから二ヶ月。
アルヴィンは王室と教会を巻き込み、聖女制度の改正を進めた。
幸い、次代の保護対象となる高魔力の子供はすでに把握されていた。
十二歳の伯爵令嬢である。
民衆には「真なる聖女が新たに判明した」と発表し、彼女へ聖女の役割を移行する。ただし、これまでのように幼い子供を教会へ完全に移住させることはしない。基本は生家から通わせ、通常の教育も受けさせる。巡回日程も年齢に応じて制限し、成人後には本人の状態と意思に応じ、聖女という役職から離れても安全に魔力を循環させられる制度を新たに整える。
そしてメルヴェルについては、聖女という拘束から解放する。
ただし、保護そのものを打ち切るわけにはいかない。
なにせ、歴代最大級である。
王家が生活保障と安全管理を引き継ぎ、定期的に魔力量を確認する。
そして理想を言えば。
「王妃になってもらえばいい。」
アルヴィンは言った。
父王と大司祭が同時にこちらを見た。
「王妃なら地方公務も多い。各地の人間と交流し、王都だけに籠もる生活にもならない。王宮なら警備体制も整っているし、魔力塔の代替設備を設けることも可能です。生活も完全に保障できます。」
「なるほど。」
大司祭が頷いた。
「そして私が傍にいられる。」
大司祭が止まった。
「……殿下。」
「何でしょう。」
「最後だけ、随分と私情が混ざっておりませんか?」
「国家的合理性があります。」
「ございますが。」
「なら問題ありませんね。」
「殿下御自身が常に傍にいられる必要は?」
「私なら、彼女が本気で機嫌を損ねる前に分かります。」
「……二十年来のお付き合いですものね。」
「そういうことです。」
「それだけでしょうか。」
「国家的合理性があります。」
「二度仰らなくても結構です。」
大司祭は深く息を吐いた。
「殿下は、随分昔からメルヴェル様をお慕いでしたものね。」
「国家的合理性があります。」
「三度目は要りません。」
そうして二ヶ月をかけ、ようやく準備を整えた。
聖女としてではなく、一人の女性として自由に生きてもらう。
王家として生活を守りながら。
できることなら。
自分の隣で。
アルヴィンはそう考えていた。
まさか自由になった翌朝、
「勇者になります。」
などと言い出すとは。
一体誰が予想できただろう。
◇
結局、その日メルヴェルは出発できなかった。
アルヴィンが本気で扉の前から退かなかったからである。
しかしメルヴェルも、そこで諦めるほど素直ではなかった。
翌朝は厩舎へ向かった。
「申し訳ございません。昨日よりメルヴェル様への馬の貸し出しを控えるよう、王太子殿下から申し付けられております。」
「……そうですか。」
手が早い。
翌々日は裏門を使った。
「おはよう。」
門柱へ寄りかかっていたアルヴィンが手を上げた。
「……暇なのですか?」
「お前のせいで暇を作るしかなくなったんだ。」
「国政をしてください。」
「勇者を諦めろ。」
「嫌です。」
その次の日には厨房の搬入口まで先回りされていた。
そして四日目。
メルヴェルはとうとう二階の窓から出ることにした。
別に飛び降りても、魔法で着地すれば怪我はしないだろう。
半ば自棄で窓を開け、片足を窓枠へ掛ける。
「メルヴェル。」
下から声がした。
見下ろす。
いた。
「…………。」
「戻れ。」
「どうして先回りできるのです?」
「お前の行動傾向は既に把握している。」
「さすが稀代の天才。しかし、ちと才能の使いどころが残念過ぎませんかね。」
「誰のせいだ! 誰の!」
メルヴェルは窓枠へ腰掛けたまま、長く息を吐いた。
二十年間、魔王から世界を守るという名目で聖女を務めてきた。
その役目をようやく終えたと思ったら、今度は魔王を探しに行くことすら許されない。
なかなか自由というものは難しい。
どうやら勇者になるためには、存在するかどうかも分からない魔王より先に、目の前の王太子を何とかしなければならないらしい。
随分と前途多難である。
一方、窓の下で彼女を見上げているアルヴィンも、ほとんど同じようなことを考えていた。
魔王はいない。
聖力も存在しない。
そして今、勇者になろうとして教会の二階から脱走しようとしているこの女こそ、王室と教会が二十年間、莫大な金と人員を費やし、何としてでも魔王にしないよう守り続けてきた人間なのである。
ようやく聖女から解放し、今度こそ王家の保護の下で自由に暮らしてもらえると思っていた。
できれば王妃として。
自分の隣で。
それが何故、存在しない魔王を探す旅へ出ようとしているのか。
「メルヴェル。」
「何でしょう。」
「もう一度だけ聞く。」
「はい。」
「王妃は嫌か?」
窓枠へ腰掛けたメルヴェルは少し考えた。
王妃。
こちらを若干必死な形相で見上げている青年へ目を遣る。
才能がある。
性格も悪くない。
容姿端麗。
将来国王になる。
そして何故か、自分と結婚したいらしい。
しかし。
相手は王太子である。
つい先日まで聖女だったとはいえ、現在の自分は二十六歳無職。
釣り合うには。
やはり何らかの実績が必要ではないだろうか。
例えば。
魔王討伐。
勇者。
うむ。
これなら十分だ。
「……勇者になった後なら検討します。」
「だから順番を逆にしてくれ!」
今日も駄目だった。
◇
なお、新しく聖女となった十二歳の伯爵令嬢は、数日後、先代聖女メルヴェルから届けられた分厚い引継書を受け取った。
全国の巡回経路。
季節ごとの通行可能な街道。
宿泊先の寝台の硬さ。
各教会の担当者名。
寄付者との面会を詰め込み過ぎないための断り方。
移動中に腰を痛めない座布団の選び方。
疲れている時には笑顔を作らずとも「厳粛な表情です」で押し切れるという実践的な助言。
二十年間の経験が、実に几帳面にまとめられていた。
そして最後の頁には、力強い字でこう記されていた。
『困ったことがあれば、いつでもご相談ください。勇者として駆けつけます。』
十二歳の少女は、その一文を随分長いこと見つめたという。
聖女とは、魔王から世界を守るための存在ではない。
魔王を、この世界に生み出さないための制度である。
そして、その事実を。
今まさに存在しない魔王を倒して勇者になろうとしている当のメルヴェルだけは、まだ知らなかった。




