ラムネ
今日の気温は三十九度。
頭はぼんやりしているのに蝉の鳴き声だけはくっきりと浮き上がって聞こえる。
お盆休みを貰って広島から実家の福岡の田舎に帰ってきた。
その二日前にエアコンが壊れて、今はただ暑さを紛らわすために母ちゃんと2人で畳の上に寝転がっているだけ。
寝返りを打つたびに伸びきったヒゲが腕にあたる。
畳の上でだらけている息子は、仕事をしている父ちゃんが羨ましいと思ってしまった。やる事があれば、この暑さも少しは考えずにすむかもしれないからだ。
そんな事を考えたところでやる事ができるわけでもなく、暑さの苛立ちを母ちゃんに向けた。
「なぁ、母ちゃん」
「なんね」
「扇風機くらい家に置いておけよな。ほんっとに暑いわ」
「仕方なかろうも、あんたに疫病神が付いとるんよ」
そう言うと、母は笑いながらお茶を飲み干した。
「あら、無くなったわ」 母はよいしょっと立ち上がった。
気合いを入れないと立ち上がれない年になった母を見て、もう見ないように僕は寝返りをうった。
「かずひろ、お前もお茶いるかい?」
僕は少し考えた。
お茶のサラッとした感じよりも、今は炭酸のよく効いたジュースのパンチが欲しい。
「ジュース入って無かったっけ?炭酸のジュースがいいんだけど」
「あー無い無い。私も父ちゃんもお茶しか飲まんからね。麦茶しか入ってないわ」
母ちゃんは自分のコップに麦茶を注いで一気に飲み干した。
一度炭酸のよく効いたジュースを飲みたいと言葉に出すと、その言葉はどんどん膨らんで僕の頭をいっぱいにした。
「母ちゃん、ちょっとジュース買ってくるわ。何かいるもんある?」
「いいや、無いよ。気をつけて行きなさいね」
僕は適当に返事をしてドアを開けた。
外に出ると太陽が皮膚を焼き、車に乗ると熱気が体中にまとわりついた。
僕はすぐにエアコンを効かせて、車は走らせずに中で少し涼んでいると目の前の道路をまだ肌が白い少年達が走って行った。手には駄菓子がたくさん入ったビニール袋。
「駄菓子屋か……。駄菓子屋さんのラムネよく飲んでたよなぁ」
駄菓子屋に行くとお菓子よりも必ずラムネを買っていた。
その甘酸っぱい味を思い出すと飲まずにはいられなくなって、僕はいつの間にかコンビニと真逆の方向へ車を走らせていた。
ここはもうずっと通ってない道だ。友達と遊んだ記憶がいろんな場所に散らばっている。懐かしさを感じながら小さな曲がり角をいくつか曲がると、少し先に赤い屋根の家が見えた。
思わず笑みがこぼれる。僕が知っている駄菓子屋さんだ。
近くのスペースに車を停めて車を降りる。
降りた瞬間、車内の温度との差で暑さが倍に感じたはずなのに、駄菓子屋さんに夢中になっている僕には何も感じない。
「小学生以来だもんなぁ」
そうつぶやいた声は、もう駄菓子屋さんには似合わない大人の声だった。
店の横開きの扉に手をかけて、深呼吸をしてから開けて入った。でも中はガランとしてお客さんが見当たらない。それに、おばあさんもいない。
「あの……すみません、こんにちは!」
僕がそう言うと、奥から小さなおばあさんが出てきた。
「はい、いらっしゃいませ」
驚いた。
僕が小さい頃の、このおばあさんのイメージはいつも怒っていて怖いものだった。
でももうあの頃の面影は無く、ただニコニコ笑っている。
「相変わらずお元気そうで」とか「あなたを見るとあの頃を思い出せて嬉しいです」とか気をきかせた言葉をかけようとしたけれど、どれも今のおばあさんには似合わなかった。
言葉に詰まった僕は、ラムネが入っている透明の冷蔵庫に逃げてラムネを一本取り出すとおばあさんに渡した。
「100円です」
僕が100円玉を渡すと
「ありがとう」
と言っておばあさんは優しく笑った。
なんだか居心地が悪くて外に出る。
改めてラムネを見ると太陽に当たってビー玉がキラキラ光っていた。やっぱり今もお気に入りだ。自然と顔が緩む。
ラムネのフタを押して口にすると甘酸っぱい味が口に広がって、炭酸が喉をはじいた。
また一口と口にするたびに僕は昔の記憶を思い出していた。
友達との喧嘩、喉が乾いてたまらなかった帰り道、毎朝の眠気と闘った日々、初恋……。毎年この時期になるとラムネを思い出して駄菓子屋さんへの道を振り返って見ていたのに中学生に上がると子供っぽいラムネは飲まないんだと、大人ぶってマズいビールを口にした。
その後、たくさんの飲み物が発売されて、だんだん遠ざかっていったラムネとあの頃の僕。
「また来年ここに来るよ」
汗とラムネの匂いが混ざって、あの夏の匂いがした。
変わるものも変わらないものもある。
変わったところにもきっと戻れるはず。