其の十七: 臆病野州
かつて「出雲の狼」尼子経久と「周防の虎」陶興房は備後細沢山での戦いをはじめ数々の戦場で争い、その副将格の尼子下野守久幸と弘中三河守興勝も互いの戦略や陣容を研究していた。
小太郎は父興勝から久幸の無名を幾度となく聞かされており、久幸もまた小太郎の名乗りを耳にするや、あの三河守の子だと直感できた。
「三州は武に疎いと噂だったが、息子はなかなか強いではないか」
「それはどうも。尊公も噂以上」
「ふっ、この老骨が胸を貸してやるわ」
押し合う刀身の向こうで、久幸は不敵に笑みを浮かべる。
相手に不足なしと、両者はさらに激しく打ち合う。十合二十合、双方の刃は宙に閃光を描いては、かち合って火花を散らした。
さすがは天下に名の轟く新宮党の頭領だけある。久幸の斬撃は若き小太郎の太刀捌きを上回っている。小太郎は冷必死に防戦した。
だが、長引くうちに久幸に疲れが見え始める。猛将といえど老体。息も上がる。
「楽しい勝負だったが……、そろそろ終わらせてもらうぞ」
早々の決着をつけるべく、久幸は地鳴りのような雄叫びを上げ、渾身の力で太刀を振り下ろした。小太郎はとっさに刀を構え直したその瞬間。
ヒュッ。
飛来した一本の矢が、久幸の左脚に深々と突き刺さった。毛利の先導役の中原善右衛門が放った矢である。突然の激痛に、久幸の体軸が崩れ、刀身が揺れる。
小太郎はその刹那を見逃さなかった。久幸の刀を鋭く弾き、返す刃先は久幸の首元からずぶりと肩へと深く食い込んだ。久幸は鮮血を噴き出しながら、片膝を地につく。
「……!」
敵将が矢を受けていたことに小太郎が気づいたのは、その直後のことだった。自分が見た敵の隙は、幸運に過ぎなかった。
久幸が飛び矢を受けなければ、また二十年前の体力を持っていれば、果たして勝てたかどうか。小太郎は相手の豪勇を心から認め、強敵の身から刀を引き抜くと、大きく肩で息を整える。
血に塗れる久幸は、小太郎を見上げながらつぶやく。
「強いな、小倅……。これで、臆病の汚名は返上できるだろう……」
「……臆病の汚名とは?」
「……此度の遠征、わしは止めたのよ。それで臆病野州と謗られた」
久幸の言葉に、小太郎は面食らう。
天下に轟く名将が、若き自分に何かを伝えようとしている。その想いが痛いほど伝わってくる。
小太郎は咄嗟に首を振った。
「……尊公はお強い。決して臆病などではござらぬ」
「まことか」
「はい。剣を交えた私が尊公の勇、尼子に伝えて汚名を雪ぎましょう」
「要らぬ。天は知る。難敵のおぬしも認めてくれたなら、それで十分だ」
そう言うと、久幸の笑んだ口角からは鮮血が流れ始めた。小太郎の刃が確実に内臓を突き破っているのだろう。
「下野守どの……」
「……軍には勢いの波がある」
久幸は最後の力を振り絞って、小太郎に語りかける。
「勢い高ければ軍中に冷静なく、用心は軟弱と嘲られ、慎重は臆病と謗られる。それでも誰ぞが、冷静を受け持たねばならぬのよ。若いおぬしにも、いずれ分かる日が来よう……」
危険を顧みず敵本陣に切り込んできた命知らずの若さが眩しく見え、時代を生きた老将として小言が言いたくなったのかもしれない。そう思った久幸は自嘲気味に鼻を鳴らし、そのまま力尽きて小太郎の前にどさりと倒れた。
その表情には、達観した笑みが浮かんでいた。
絶命の敵将を見下ろしながら、小太郎はその遺言の意味を反芻する。久幸の言葉はなぜかあまりに強く重く、頭の中を駆け巡った。
<つづく>




