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第二十一章 ヤギ

姫は小さく息をつき、振り返った。

「セント……私たち、少し休憩しましょう」

そのまま静かに車へ戻っていく。

緊張の糸が、ようやく緩みはじめていた。

ふと、姫は思い出したように口を開く。

「ねえ……さっきのヤギの顔。

横から見た、あの異様な顔……あれは何?」

セントは迷いなく答えた。

「――クヌムの呪い。

あの術を使う時だけ、あの顔になるんだ」

姫の瞳がわずかに揺れる。

「クヌム神って……エジプトの神よね」

セントはゆっくり頷いた。

「ディオニュソスの物語が、各地へ伝わる途中で

姿を変えたもの……とも言われている」

静かな声が、神話を紡ぎはじめる。

「悪魔に追われ、彼は様々な動物へ変身した。

最後に牛になった時――

ゼウスの雷に打たれる」

「その瞬間、

父ゼウス、精霊ディオニュソス、そして人。

三つが重なり、新たな存在が生まれた……という物語だ」

姫は小さく息を呑んだ。

「……それが、エジプトに伝わると?」

「牛が――ヤギへ変わった」

姫はすぐに思い当たる。

「牛がヤギに……

それって、パーンの神話ね」

セントは静かに続ける。

「アポロンたちとのナイルの演奏会。

そこへテュポン――悪魔が襲来する」

「パーンは逃げ、ナイルへ飛び込む。

上半身はヤギ、下半身は魚――」

「……あの姿になる」

姫は苦笑した。

「地中海の人たちが

牛とヤギを取り違えたのを笑った……

そんなところかしら」

セントもわずかに笑う。

「異世界の話だから、

こちらと完全に同じとは限らないけどね」

そして声の調子が変わる。

今度は、より深い核心へ――

「僕らの世界では、

ディオニュソスは農耕神だ」

「秋に冥界へ死に、

春に再び生まれる」

姫はすぐに答えた。

「……イースター」

「そう」

セントは頷く。

「けれど、エジプトのように

赤道に近い土地では――」

姫が続きを言う。

「四季が弱い。

つまり……ディオニュソスは死なない」

「その代わり、

ナイルの氾濫で農耕できなくなる時期を――

死の季節と見立てた」

静寂が流れる。

セントはさらに語る。

「氾濫で生まれる中洲……丘。

そこをあの世の入口と考えた」

「そしてディオニュソスに酷似した

神の特徴を持つ牛を――

埋葬した」

姫の声が、静かに震える。

「……それが」

「その中洲を神殿化したもの。

それが――ピラミッド」

姫の瞳が大きく開かれた。

「じゃあ……

ディオニュソスが冥界へ降りる場所は……」

セントははっきり告げた。

「ギザのピラミッド」

空気が一瞬、止まる。

やがて姫は、さらに問いを重ねる。

「ディオニュソスの凶暴性が……セト。

冥界へ行く側面が……オシリス」

「四季がないから

“死の場面”を演出できない――」

「だから、

オシリスを殺すセトが必要になった……」

ゆっくりと整理された理解。

そして、最後の疑問。

「……じゃあ、ラーは何?」

セントはわずかに目を細めた。

「パレスチナにある隣国フェニキア。

そのフェニックス信仰が流入し――」

「太陽神ヘリオスと重なった」

「……その影響だろうね」

沈黙。

神話が、一本の線でつながった瞬間だった。

車の外では、

まだ世界が静かに軋んでいる。

だが姫には分かっていた。

――これは、ただの神話の話ではない。

いま起きている現実そのものなのだと。


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