第一章 帰還
六十年目。
灰色だけで満たされた空間に、初めて“線”が走った。
それは光でも、救いでもない。
ただの「出口」だった。
ギルは立ち上がらなかった。
立てなかったのではない。――立たなかった。
「……やっとか」
声は枯れ、怒りも焦燥も、とうに燃え尽きていた。
胸の奥に残っていたのは、濁り切った呪詛だけ。
神は、世界を許さなかった。
外へ出た瞬間、ギルは理解する。
世界は――何ひとつ変わっていなかった。
王は玉座に座り、
人は争い、
子は泣き、
神々は沈黙したまま。
その事実が、ギルを完全に壊した。
「……ああ、そうか」
「世界は、オレを必要としていなかった」
六十年。
神が消えても、世界は回り続けていた。
ギルはその場で笑った。
それは喜びではない。
世界との、決別の笑いだった。
旧約の再演 ――「選別」
ギルは“宣告”を行った。
「印を掲げよ」
それは血ではない。
羊の頭でもない。
“契約”だった。
神に祈る者。
命の重さを知る者。
他者の死を娯楽にしなかった者。
そうした家の前には、不可視の刻印が刻まれた。
刻印なき家――
力を誇り、
支配を正義と呼び、
他者を道具として扱う者たちのもとへ、
ギルは歩いた。
死神は剣を持たない。
彼は殺さない。
ただ、命の“糸”をほどくだけだ。
抵抗は意味をなさず、
叫びは神に届かず、
人々は眠るように命を失った。
人は言った。
「神の罰だ」
「疫病だ」
「呪いだ」
だが、ギルは否定した。
「違う」
「これは、オレの私怨だ」
なぜ“選別”なのか
かつてギルは思っていた。
――世界は、力で正されるべきだと。
だがアルバは、
何も壊さずに、神を閉じ込めた。
その事実が、六十年かけてギルの内側を侵食していった。
「……全部、壊すのは違う」
「あいつは……選んだ」
だから、ギルも選ぶ。
無差別ではない。
正義でもない。
「生きる資格」でもない。
ただ――
これ以上、世界を壊す側に立つ者 を排除するだけ。
死神の名
人は彼を、こう呼ぶようになる。
黄昏の神。
契約破りの裁定者。
そして――死神。
だがギル自身は、その名を嫌った。
「オレは、神じゃない」
「ただ……戻れなくなっただけだ」
そして、唯一の恐怖。
ある夜、死神は立ち止まった。
アルバの名が、どこかで語られたからだ。
「……まだ、生きているのか」
それは喜びでも、安堵でもない。
――恐怖だった。
ギルは目を覚ます。
「……夢か」
視界一面は、再び灰色の世界。
爪は伸び、髪は乱れ、目は落ちくぼんでいた。
――死後の亡者とは、こんな姿なのだろうか。
かつての自分は、もうどこにもいない。
自分は、死んだも同然だと感じていた。
周囲のすべては、すでに滅び去った。
ギルを知る者など、もう誰も残っていない。
縁が、ぷつりと切れていた。
ギルは目を凝らす。
一キロほど先に、扉が見えた。
歩く力は、もう残っていない。
彼は地を這い、扉へ向かった。
扉を開く。
「……ああ、やっぱりな」
そこにも、何もない空間が広がっていた。
次の瞬間、視界が暗転する。
気づけば、湖のほとりに立っていた。
――解放されたのだ。
全身を洗っていると、雨が降り出す。
湖の前には、小さなお堂があった。
お堂の前で、手を合わせる少女がいた。
羊の顔をした男を見て、少女は息を呑む。
だが遠くから様子をうかがい、
害がないと感じたのか、そっと近づいてきた。
少女
「仏様……今日はこれしか取れなかったけど、
明日はもっと取れるようにしてください」
ギル
「……」
少女
「仏様、お体を拭きますね」
「髪も……整えますね」
ギルは、何も言わなかった。
やがて少女は、寂しそうに呟く。
少女
「母が倒れました……お医者さんに見せるお金もありません」
ギルは静かに、少女の手に金貨を握らせた。
少女
「……ありがとう、仏様」
少女のおかげで、ギルの体力は徐々に戻っていった。
少女
「仏様、お名前は?」
ギル
「……名は捨てた。お前が決めろ」
少女
「名前がないのは大変よね……
じゃあ――セイント。仙人の“セント”」
セント、京都かどこかの地方マスコット
「……それでいい。そう呼べ」
ある日、少女は慌てて言った。
少女
「セント、逃げて!
大人にバレたの!」
「コインを見せたら、どこで手に入れたんだって……
欲しがって、ここに来るから!」
セントは、羊の顔を人の顔へと戻した。
少女
「……男の人に言っていいかわからないけど、
きれい……」
セントは少女を姫抱きにして走り出す。
加速する。
風を裂き、地を蹴り、速度は増していく。
少女
「ま、待ってーー!
ここ、ここが私の家!」
家に着く。
少女
「お母さん、ただいま!」
母はキッチンに立っていた。
母
「だめよ、まだ寝ていないと……」
少女
「だめ!
お母さん、無理しちゃ!」
母
「お前一人に働かせるわけにはいかないさ」
少女
「こちらが聖者様よ。
名前はセント。私が決めたの」
「命の恩人なんだから、挨拶して」
母は不思議そうに頭を下げる。
母
「これはこれは……命を救ってくださったとか」
セント
「こちらこそ」
そう言って、羊の顔を見せる。
母は息を呑んだ。
呼ばれた神学者は、セントの顔を覗き込む。
神学者
「牛頭天王……馬頭観音……?
エジプトにも似た神がいた気がしますが……
いや、わかりませんな」
母
「……大丈夫でしょうか?」
少女
「悪いことなんて起きないわ!」
「お母さんを救えたのも、セントのおかげだもの!」
少女は続ける。
「隣のクラスのケンタ君、
神隠しから帰ってきたら、力持ちになったんだって」
「ナギちゃんのクラスでは、
神隠しを馬鹿にした男の子が、自然発火で……」
「でもね、不思議なの。
ヒマリって子が駆け寄ったら、
服だけ焦げて、火傷もなかったって」
母
「……病院には?」
少女
「救急車で運ばれた」
「神隠しにあったのはハルトって子と」
「最後の一人――ミナト君だけは、
植物人間で入院してるわ」
セントは、心の中で呟いた。
(……勇者帰還に、巻き込まれたか)




