『町長代行、高橋』
翌朝、俺は役場の玄関で立ち尽くしていた。
平日の朝八時半。
空気はひんやりしていて、山の影がまだ道路に残っている。
役場の前には、すでに軽トラックが三台停まっていた。どれも年季が入っていて、持ち主の顔がなんとなく想像できる。
全員、俺より早い。
「おはようございます、町長代行」
声をかけてきたのは、昨日まで名前も知らなかった職員だ。
その「町長代行」という言葉が、耳の奥でひっかかったまま離れない。
「まだ代行ですから」
「はい。でも、今日の予定は町長代行として入ってます」
渡された予定表は、文字がびっしりだった。
会議。
会議。
会議。
合間に「住民要望対応」。
無人島では、朝の予定は一行で済んだ。
――生き延びる。
それに比べれば、ずいぶん文明的だ。
……そう思っていた。
最初の会議は「高齢者交通対策」だった。
「バスが減って困ってる」
「免許返納しろって言われても、病院に行けない」
十人ほどの住民が、順番に話す。
誰も声を荒げない。だからこそ、言葉が重い。
俺は、うなずくことしかできなかった。
無人島では、移動手段は徒歩か、せいぜいイカダだ。
行けなければ、行かないだけで済んだ。
だがここでは、行けないことが、生きられないことにつながる。
「……検討します」
そう口にした瞬間、
視線が一斉にこちらへ集まった。
期待というより、確認だ。
――逃げないかどうか。
ああ、これが政治か。
次は農業関係の要望だった。
「獣害がひどい」
「鹿と猪が畑を荒らす」
「対策費が足りない」
誰かが話すたび、別の誰かが深くうなずく。
俺の頭に、無人島でのイノシシとの攻防がよぎった。
火を焚き、叫び、全員で追い払った夜。
あれは、勝ち負けの話だった。
だが、ここでは生活だ。
「……検討します」
二回目のその言葉は、
一回目より、少しだけ喉に引っかかった。
昼休み。
職員食堂で、一人定食を食べる。
焼き魚。
味噌汁。
漬物。
どれも、驚くほど普通だった。
「町長代行、味どうですか?」
調理員さんが、気軽に聞いてくる。
「美味しいです」
それは、本当だった。
不思議なもので、
きちんと作られた日常のご飯は、
無人島で食べた豪華なバーベキューより、ずっと腹に溜まる。
この町で生きている人たちの時間が、
そのまま胃に落ちてくる感じがした。
午後、最後の予定は「住民要望・自由枠」だった。
自由枠、という言葉に嫌な予感がしたが、
案の定、最初に来たのは怒っているおじさんだった。
「イベントばっかりやって、意味あるのか!」
机が鳴る。
「若いもんが来ても、すぐ帰る!」
「金だけ使って、何が残る!」
正論だった。
だから、すぐに返す言葉が見つからなかった。
無人島対抗戦では、人が帰るのは前提だった。
終われば、島には何も残らない。
……いや、違う。
何も残らない、なんてことはなかった。
俺は、少しだけ背筋を伸ばした。
「残ります」
「何がだ!」
「経験と、関係と……」
一瞬、言葉を探してから続ける。
「次に、もう一回やってみようって気持ちが」
自分でも、ずいぶん曖昧な答えだと思った。
だが、おじさんはそれ以上何も言わなかった。
政治の仕組みは、まだよくわからない。
予算も、制度も、正直難しい。
でも――
人を集めて、
ルールを作って、
場を用意することなら、できる。
無人島で、ずっとやってきたことだ。
その夜、俺は机に向かい、一枚の紙に書いた。
「町おこし計画案(仮)」
中身は、ほとんど無人島対抗戦だった。
ただし、脱落はない。勝敗もない。
生き残るのは、町そのものだ。
ペンを置いて、ため息をつく。
「……これ、通るかな」
無人島なら、ここからが一番楽しい。
だが町では、ここからが一番怖い。
それでも――
もう、引き返せなかった。
町長代行、高橋。
地獄の二日目が、静かに始まろうとしていた。




