番外編短編・ヤンソンさんの誘惑
明日香がカフェでバイトを始めてから一年以上がたった。あと一カ月でクリスマスだ。
カウンセラーの仕事は、まだまだだ。日々、明日香は自分の実力不足を実感していたところ。
店長との関係も相変わらず。確かに「明日香ちゃん」と呼ばれるようになったり、フィーカの時間は、時々甘い空気も流れるが、それだけだ。別にはっきりと何か言われたわけでもなく、何も進展していない。
「ミャー!」
カフェの閉店直後、明日香はテーブルや床を掃除していると、看板猫のムンキがまとわりついてきた。いつになく落ち着きのない猫のムンキ。今日も相変わらず常連客に可愛がられていたはずだが。
一方、厨房の方からはチーズの焦げるいい香りがしていた。
今、店長は色々とメニューを試作中だった。クリスマス前には貸し切り予約も入り、スペシャルなメニューもお客様にご所望されたらしく、店長は閉店後、何か色々試作していた。
いつもは閉店後、フィーカをしている事が多いが、今はこんな事情がある為、なかなかその次回もない。
といっても早く帰るのも違和感を持ち、カフェでの掃除が終わると、猫のムンキを抱いたり、おもちゃで遊んでいたりした。
その時、店長が厨房からやってきた。手には大きなグラタン皿を持っている。それにチーズの焦げる良い香り。
「なんですか、その料理は?」
「これは北欧のスペシャルなグラタン。じゃがいもとアンチョビの美味しいものだ。ヤンソンさんの誘惑という」
店長はそう言いながら、グラタン皿をテーブルの上に置く。
「変な名前の料理ですね」
そう言う明日香だが、北欧の呪文風に聞こえるお菓子やパンも耳なれてしまったし、特に驚きはしない。名前は珍しくても実際食べるととても美味しいというのもある。
「うん。この料理の由来は諸説あるが、菜食主義のヤンソンさんも思わず食べてしまったぐらいの美味しい料理だったとか」
「確かに良い匂いですね……」
明日香も良い匂いにすっかり誘惑されていた。もう時間も夕方だ。猫のムンキも興味深くグラタン皿を覗いている。
「明日香ちゃん、食べる?」
店長は目を細めていた。いつもより若干低めな声。思わずテーブルから目を背けたが、店長とばっちり目が合い、いたたまれない。
「今度はフィーカだけでなく、一緒に食事をしてみるのもどうですか?」
さらに低めの声。ささやくような空気もあり、明日香は肩をすくめる。これは店長に誘惑されているかもしれない。
「え、ええ。食べます!」
明日香はそう言う事しか出来ず、下を向いていた。
「ミャぁ……」
猫のムンキは呆れたような声をあげ、テーブルから静かに去っていた。




