サルヴィのツノ(4)
それでも明日香は金曜日まで一生懸命働いた。渡邊の態度は相変わらず。倉井は直接何かして来なかったが、ずっと遠山君枝の噂をしていた。
羽山は忙しく、内田は滅多に見ない。課長もほとんど顔を合わせないまま、金曜日まで耐えた。
勝手に耳に入る女子ロッカーでの噂話を総合すると、どうやら渡邊と倉井は結託し、遠山をいじめていたそう。菊の花も遠山が受けていたらしい。菊の花を速攻で捨ててもロッカーの女子社員にはクスクス笑われて終了だった。
それでも一応、人事部に報告はしておいたが、真剣に取り合ってはくれない。「ま、よくある事です」と言われ、初日の研修動画でコミュニケーションの基礎が説明された意味を察した。
この工場の周辺にはヤンキー高校もあるらしい。人事部によると、そこで会社説明会を開いた事があるらしく、明日香は色々と理解した。
こうして右の手のヒリヒリは全く変わらず、むしろ悪化したまま金曜日が終わり、土曜日になった。
土曜日は何もやる気がせず、一日中寝ていた。もうすぐゴールデンウィークと言われても、全く嬉しくない。
ベッドの上で寝ながら、「退職」という文字は頭の中から追い出す。もし会社を辞めたら、元の人生迷子に逆戻り。
母の小言、お祈りメールを思い出す。貯金、税金、年金額にも胃が痛む。明日香の中では、この会社を辞める選択はない。
仕事内容自体は楽な方だし、給料も悪くない金額だ。土日も休める。契約社員でみボーナスもある。正社員試験も受けられる。人間関係を除けば、申し分ない職場ではかも知れない。
こうして悶々としたまま、日曜日の朝になった。もう既に明日の事を考えながら胃が痛む。食欲もなく、シェアハウスのリビングで栄養ドリンクをすすっていた。
「ちょっと明日香さん、大丈夫?」
真緒には心配された。明日香の隣に座り、事情を聞いてくるぐらい。普段あまり人のプライベートに立ち入らない真緒にしては珍しい。
「やば! その会社やばいじゃん! ヤンキー女子と高齢お局が一体になって新人いじめているとか!」
真緒は目を丸くし、逆に笑い始めた。
「ドラマみたいにやばい会社じゃん!」
「ちょっと、真緒さん! 笑わないでよ」
「もう辞めよう。退職代行使おう!」
笑っていた真緒だったが、退職代行業者を紹介してきた。ネットの口コミも良く、安心できる業者だと太鼓判を押されたが、今の明日香にその選択肢はありえなかった。
「もし会社辞めたら雇ってくれるところなんてないよ」
「明日香さん、視野狭いって。かなりの特殊ケースだと思うし、全部がそういう会社や工場って訳ではないよ。あ、そうだ。気分転換しようよ。一緒に教会の礼拝行かない?」
「え、礼拝?」
そんな選択肢はなく、今度は明日香の目が丸くなってしまった。
「うん、あのカフェの裏の教会。うちの田中おじさんの教会だけど、今日は店長が礼拝説教するって」
すっかり忘れていたが、店長の本業はキリスト教関係者だった。宗教には興味はなく、キリスト教もよく知らないが、店長の本業は少し気になる。それにこの瞬間だけは会社の事を忘れられた。
「そうだね。教会行っていい?」
「オッケー! 気分転換だよ。私も別にクリスチャンじゃないけど、気分転換にいいよ。俗世間と切り離されるていうか」
という事で真緒と二人で教会へ。服装はなんでもいいらしく、明日香も真緒も普段着とスニーカーで教会へ。
カフェも元教会ではあったが、そことは違い、小さな公民館のような雰囲気だった。天井は高く、窓も大きいが、教壇があり、椅子が並んでいる所は、学校にも近い。真緒が言う俗世間と切り離される感じはよくわからない。
もっとも来ている人は、ご婦人も多く、カフェの常連客の姿も。
「明日香さん、カフェ辞めないでよ!」
「そうよ! また戻って来てよ!」
そんな事まで言われてしまい、明日香はただただ戸惑うばかり。
そうこうしている内に礼拝の時間となり、真緒と明日香は一番後ろの方の席につく。席は基本的にどこでも良いそうだが、最前列は熱心なクリスチャンが座っている事が多いそう。
宗教には興味がなく、なんとなく未知の世界だったが、讃美歌演奏や聖書朗読の時間は、真緒の言う通り、俗世間的な空気は薄く新鮮だ。
あれだけ頭を悩ませていた現状だったが、目に映るものが何もかも新鮮だ。今は仕事の事は全部頭から出ていた。
こうして礼拝プログラムは着々と続き、牧師の田中が急な出張という事で、説教はあの店長はが代わりにする事がアナウンスされた。
教壇に登り、聖書を読んでいる店長。普段と全く雰囲気が違う。カフェではジーンズ、白シャツ、エプロン姿だ。帽子も衛生対策で使用していたが、今はスーツ姿で髪も綺麗にセットしている。
「いつもと雰囲気違うね? ま、礼拝説教ではスーツ姿の人が多いらしい」
真緒が小声で教えてくれた。確かにキリスト教っぽい黒い服を来ていそうだが、今日の店長はスーツ姿だ。
これも珍しい。店長は顔も悪くないので、スーツ姿も様になってる。明日香の頬はなぜか少し赤くなってしまうが、説教の内容に集中する事にした。こんな機会は滅多にないだろうから。
説教では聖書を引用しつつ、アンガーマネジメントについて話していた。意外と身近な話題でわかりやすい。
怒りには色んな種類がある。特に自分勝手な怒りは続かない。悪い結果になる事が多く、聖書でも戒められているという。
誰かの為、社会の為の怒りも、いつの間にか自分勝手ない怒りになりやすい。
「要はどんな怒りなのか。一旦、深呼吸して考える事も必要です。これは良く言われている事ですが、怒りの感情が来てもちょっと待ちましょう。六秒間、深呼吸してみましょう」
さらに店長は、神様の啓示からくる「聖なる怒り」もあると説明した。イエス・キリストも怒った事があるそう。
それには驚く。勝手なイメージでは、イエス・キリストは優しく、穏やかで、優等生的なイメージがあった。隣に座る真緒も驚き、目が大きくなっている。
「イエス様は、神殿で金儲けをする人達にとっても怒ったんですよね。偉そうにしている宗教家にも。これはイエス様が自分勝手に怒ったんではありません。天にいる父なる神様の意図通りの怒りです。基本的にイエス様はみなさんがイメージするような優しい方ですよ。でも普段優しい人が怒ると怖いですよね? みなさんの周囲にそういうキャラクターの人、少なからずいるんじゃ無いですか?」
明日香はこの少し宗教的で難しいと思ったが、店長は時と場合によっては怒る事も悪くないという。特に神様や隣人の為への怒りは、悪くない場合もありそうだ。
「よくクリスチャンは、無理矢理隣人を許そうとしますが、それは違います。犯罪者を無理矢理許して子供を殺された人もいます。こういう時は、ちゃんと司法や警察に任せましょう。司法や警察も神様が建てた地上の権威ですから、そこに信頼してもいいんです。優等生な宗教家にならないでください。現実的に出来る事も普通にやる必要もあります。まずはちゃんと犯罪者に怒り、警察に突き出しましょう。許すのはその後でも遅くない」
説教というと難しいイメージもあった。宗教的で怖いイメージもあったが、こうして聞くと、そこまで浮世離れもしていない。むしろ現実的でもあり、明日香の目から鱗が落ちるぐらいだった。
また讃美歌やお祈りなど礼拝のプログラムは終了。終わった後、店長はすぐに教会の人に取り囲まれ、明日香や真緒が話す機会はなかったが。
「いじめっ子というかお局にも、怒った方がいいんじゃない? 人事部には言った?」
店長の説教内容を受けたかは知らないが、真緒は最後にこんな事も言っていた。
「そうね、そうだけど……」
一応明日香は頷くが、また右手がヒリヒリと腫れ上がり、チクチク痛い。




