人の器とカルヤラン・ピーラッカ(1)
「さあ、岡辺さん。今日はカルヤラン・ピーラッカを作りましょう」
「なんですか、それ?」
今日もカフェのバイトだ。明日香は従業員入り口からカフェに入り、エプロンをつけ、手を洗うと厨房へ。
厨房に入るとミルクの優しい香りが漂っていた。鍋をチラリと見ると、店長がミルク粥を作っているらしい。
明日香は普通の日本人だ。ミルクで煮るお粥はちょっと抵抗感が拭えないと思いつつも、店長に朝の挨拶をし、仕事の指示を受けようとしたが。
まるで呪文のような言葉を言うではないか。カルヤラン・ピーラッカ。フィンランド料理である事は予想がつくが、その響きだけでは呪文にしか聞こえない。
「なんですか、それは。そんなフィンランド語を言われてもわからないです」
「大丈夫、大丈夫。もう生地はできているから、最後の形成をやって欲しいんだよねー」
店長は作業台にボウルに入ったを持ってきた。黒っぽい記事を持ってきた。
「店長、生地は黒いですね」
「ライ麦粉で作ったから」
今日の店長はやけに機嫌がいい。先日、いろいろと和美の件もあり、FIREは辞めて真面目に転職先を探すと言ったからだろうか。その日以来、店長は笑顔だ。いつも笑顔だが、さらに雰囲気が軽やかになったというか。単純に春だから陽気になっている可能性も高い。フィンランドは日照時間も短いと聞く。そこで育った店長にとって春は特別かもしれない。
「まずは、この生地をこうして棒状にしたら、五つにわけて」
「は、はい」
そうは言っても今は仕事中。店長の指示を受けながら、生地を切り分ける。
「それを麺棒で伸ばす」
「こんな感じですか?」
「うーん、ちょっと薄いかな? 穴あくかも」
「わぁ、意外と難しい」
打ち粉も使いつつ、どうにか手の平サイズに伸ばす。
「そして、ここにミルク粥を乗せう」
「えー? ここにミルク粥!?」
明日香の目が丸くなる。鍋のミルク粥は、このカルラヤン・ピーラッカとは別々のものだと思い込んでいた。
「パンにお粥ですよ!? 変じゃないですか!?」
どちらかと言えば大人しいタイプの明日香でも、声が大きくなってしまう。
意外とお粥は水分はなく、ライ麦粉の生地はしっかりしているのか、漏れたり、溢れたりはしなかったが。
「パンとお粥は別々に食べるんじゃ!? 炭水化物祭りですよー!」
ライ麦は比較的糖質が低い事は知っていたが、それでも納得できない。
「まあ、驚くよね。元々はフィンランドの地方のパンで、そこはソ連の土地でもあったんだ」
「へぇ……」
「最初はフィンランド人もびっくりしてたらしいが、だんだんと受け入れられたとか。家庭料理で薪のオーブンで焼くんだ。お米もライ麦も食糧が少ない時も比較的入手しやすいから」
「炭水化物はそうですね」
店長はそんな豆知識を披露しつつも、この独特なパンを形成しいた。
折り込み、ひだも作り、まるで小さな器のようなパンになった。遠目には豆皿にも見えるかもしれない。
「わぁ」
明日香は思わずため息が出た。店長の手から魔法のように器が出来上がる。店長の指は比較的ゴツゴツとした男性らしいものだったが、今は繊細な芸術家の手のように見えて仕方ない。
「可愛いですね。パンなのに、小皿みたい」
「さあ、岡辺さんも作ってみよう」
「わー、できるかな?」
店長に手取り足取り教えてもらいつつも、このパンを形成するのは難しい。どうも綺麗に出来ず、今回は全部練習用となった。
それでも、何回か練習していくうちに、明日香も綺麗に形成できてきた。難しかったが、慣れの力は恐ろしいもの。
そしてオーブンに入れて二十分ほど待つ。その間にゆで卵を作り、黄身と白身を混ぜ、バターとも和えた。これをカルヤラン・ピーラッカと一緒に食べると最高だとか。
オーブンからもいい匂いだ。
「まあ、練習用のだけど、味見してみる?」
「いいんですか?」
「練習用だからね!」
とういう事で明日香はカルヤラン・ピーラッカを食べてみた。
「わ、想像以上に素朴。あんまりお粥食べてる感じしないかも。美味しい!」
初めて食べるカルヤラン・ピーラッカは美味しく、形成失敗してしまったものも悔しくなるぐらい。
「あれですね。お粥とパンなんて炭水化物祭りで違和感ありましたけど、日本でも焼きそばパンやコロッケパンもありますし」
「確かに! そういえばこのパンはフィンランドのおにぎりっていう人もいる!」
なぜか店長は腹を抱えて笑っていた。ここで日本のパンの名前が出て来た事が面白かったらしい。
「そう思うと、もっと綺麗にこのパンを作りたいです」
「まあ、これはウチではさほど人気あるメニューじゃないから、出す時は気まぐれだから」
「えー、そうなんですか。もったいない」
「そうだよ。ま、パンもいろいろあるから。人間と同じでそれぞれの器がね」
「器?」
「そう、英語で言えばキャパシティ。このカルヤラン・ピーラッカは、そんなパンだ」
「ちょっとよくわからないのですが」
店長の言っている意味がいまいち飲み込めないが、のんびりもしていられない。明日香は開店準備にも追われ、店長から話の続きを聞く事ができなかった。
カフェの閉店後、帰りがけにもシェアハウスの話題になってしまい、この事を聞くタイミングを失った。
もっともシェアハウスについては詳しく知りたい気持ちが強い。大家でもある牧師にも連絡をとって貰い、見学する日も決まった。まずは見学。気に入ったら、翌日にでも引越し可能らしい。
これで実家から出られるかもしれない。そう思うと、明日香の気持ちも華やぐ。本格的に春が来たような気持ちだ。




