日々のパン・サンピュラ(1)
あの苺ケーキの一件以来、母の調子は元に戻ったが、明日香にとっては完璧に良い日常とも言えない。
偶然にも母も有給、明日香もカフェやスキマバイトもなく、面接の予定も無い日だった。空はよく晴れた春の日だった。風も強くなく、花粉症さえなければピクニックやお花見日和と言えるかもしれない。
「ちょっと、明日香。なんで今日は家にいるのよ。カフェのバイトは? なんで?」
リビングで母の小言が始まってしまった。
「どういう事よ。面接は? もうこんなんじゃ子供部屋おばあちゃんになるわよ」
母の小言攻撃は一向に止まらず、明日香は逃げるように外出する事にした。天気だけは良い。少し足を伸ばし、駅前のショッピングセンターにでも行こう。スキマバイトの給料も入っているはずだ。
という事で明日香は家から住宅街をぷらぷらと歩き、二十分ほど散歩しながら、駅前へ。半分以上散っているとはいえ、桜も咲き、風も爽やかだ。花粉症も一時期より落ち着いていた。
こうして目的地についた。駅前は最近都市開発もされ、商業施設も多い。昔は工場地帯だったらしいが、企業も海外に工場移転し、今は賑やかな場所だ。平日の昼間でも人が多い。都心まで電車を使えば一時間ほどで着くし、新しく越して来た若い夫婦なども多いとか。明日香の家やカフェのある閑静な住宅地とは雰囲気が違う。
もっとも休日よりは人は少ないようだ。まずはお金を下ろしに銀行へ。ATMは数人しか並んでなく、すぐにお金を下ろせたが。
口座の残額を見ると、全く嬉しく無い。まだカフェのバイトの給料は先だが、スキマバイトの収入はあるはずだが、税金や保険料の支払いで思ったより貯金ができていない。雇用保険の給付もとっくに終わってる。明らかに正社員として働いていた時より減っている。家賃はかかっていないはずだが、月に五万近く家に入れているのも地味に痛い。一人暮らしで家賃や光熱費、食費を払うよりは安い事は知っている。大学の奨学金もない。教員だった両親は勉強にお金はよく使ってくれていた。その点は恵まれていたのだろう。
そうは言っても口座の貯金額を思うと、胃が痛む。ショッピングセンターのスタバなどいけない。可愛い雑貨屋などを見たが、値札が気になって買えなくなっていた。
最後にショッピングセンターの書店に行くことにした。漫画本ぐらいだったら、気軽に買えるだろうし、ワンフロア丸ごと書店なので賑やか楽しそう。
店頭の目立つところには、北欧フェアも開催されていた。
ついつい足が向く。あのカフェでバイトを始めてから、北欧についてはもっと知りたい。
フィンランドのガイドブックや旅行記、エッセイなどをパラパラ見ると、ムンキなどカフェで知ったお菓子も載っていた。フィーカの説明もあり、コーヒーの消費量が世界一であるコラムも。北欧の卵コーヒーやチーズコーヒーの解説もあったが、これは店長からも聞いていた。
「あぁ、サウナは楽しそう」
思わず独り言がこぼれる。サウナだけでなく、白樺の森、湖、オーロラなどは店長から聞き齧った知識では得られない。実際に足を運ばないと見えない景色だろう。
そうは言っても、フィンランドまでの旅費を計算すると、また明日香の表情が真顔になってしまい、本を閉じて元に戻す。他にもムーミンの原作本、付録付きムックなどもあったが、転職活動中の身分で貯金額が気になる明日香は、どうにも手が出ない。本でも裏表紙に刻まれた値段ばかり気になってしまい、財布を出す手が止まってしまう。
今はインプット地獄になり、何がなんでも正社員になりたいとは思っていない。店長との出会いもあり、肩の力が抜けてきたところだったが、現実問題、お金は気になる。
すっかり明日香の表情は暗くなってしまったが、
華やかな漫画コーナーに行くと、少しは気がまぎれた。買いたいものはなかったが、その隣にあるビジネスや資格コーナーも気になった。
この時間帯なのでビジネス書を探しているビジネスマンはいないよう。明日香はゆっくりと本を見ていた。何か資格をとって見ても悪くないと思った時、ビジネス書のコーナーにある投資の本に目が止まった。
今は国をあげての投資ブームだ。動画サイトでも投資でFIREした発信者を見た事がある。明日香の想像以上に優雅そうな生活だった事も思い出したが。
投資本を見ていたら、明日香もやる気が出て来た。もし投資で稼げたら、今の人生迷子も解決するかもしれない。お金さえあれば母の小言も止まるだろう。スキマバイトとカフェのバイトでも十分に生活出来るではないか。
他に副業や起業の本も気になったが、やはり投資が気になる。FIREしたい。それに国を挙げて勧めているものだったら、明日香も全く警戒心がない。
という事で、投資関連の本を三冊レジに持っていった。正直、今の明日香にとっては安い金額ではないが、これで人生迷子が終わるなら安いものだ。お金は有れば有るほど良いはずだ。
「ありがとうございました」
店員の営業スマイルを眺めつつ、レジから離れと、明日香の目もキラリと力が出てきた。やる気が満ちてきた。あれほど上手くいかない転職活動も、投資で稼げば一発逆転だ。迷子中でも抜け道を見つけた気分だ。
「という事で店長、私、投資で成功してFIREを目指そうかと思うんです」
翌日、カフェの開店準備中、厨房でスープを作っている店長に宣言していた。
明日香は焼き上がったパン・サンピュラを半分にカットしていた。これはフィンランドで日常的に食べられているパンらしい。見た目は白っぽい丸パンだが、雑穀も入り栄養価も高いという。
昔はフィンランドの家庭で作られていたらしく、店長は祖母のレシピを参考に日本人の口にも合うように柔らかさを調整しながら焼いているらしい。実際、このパンで野菜やハムを挟んだメニューは人気で、売れ残る事はまずない。午前中に売れ切れる事もあり、バターやハチミツ、ベリーのジャムをつけるのも人気で、テイクアウトもでも好評だ。一見地味だが、常連客に愛されている一品だ。
「え、FIRE?」
店長はその言葉の意味を知らなかったらしく、目を丸くしていた。元々大きな目なので、余計に目立つ。
「経済的自由を得て、のんびり家で暮らす事です。投資ではそれが可能で」
「それってニートとどこが違うの?」
店長のツッコミはもっともだ。金の有無の違いだけでニートの差は明日香は説明できず、口ごもる。
「で、でも。投資で成功したら、もう自由になれなます。フィンランド旅行にも行けるかも?」
「フィンランド旅行だったら、僕が連れて行ってあげるよ。うちの実家に泊まったら良いじゃん?」
さらりと旅行に誘われた。一体なんだったのだろう。店長はどういう意図で言ったのか不明過ぎて、変な汗が出そうで、明日香は話題を変えた。
「今は国でも投資が進められていますし、FIREも流行っているんですよ」
「そっか。でもニートじゃん?」
また話題は逆戻りだったが、フィンランド旅行のそれよりはマシだ。明日香は会話しつつもパン・サンピュラを半分に切る。
「岡辺さん、大丈夫? 焦ってない? なんならバイトの給料あげようか?」
優しい提案もされてしまい、明日香は再び話題を変えるのに苦労した。
どうやら店長はFIRE=ニートという認識があるらしい。明日香のこの野望については、少しも賛成はしていないだろう。
それでも、もう投資の本も購入してしまったのだ。後に引けない。それに人生迷子中の明日香にとっては、投資が抜け道にしか見えなかったのだ。
「なーんだ。岡辺さんの転職が成功したらお祝いのケーキを焼くはずだったのに……」
店長の声が寂しそうだった事は、忘れる事にした。




