結婚記念日の苺のケーキ(6)
猫のムンキはお気に入りの場所を母に取られ、ご自慢の白い毛をフワフワと揺らしていた。怒っているかは不明だったが、いい気分はしてなさそう。明日香は、そんな猫のムンキを刺激させないように注意しつつ、グラスの水とメニューブックを渡す。
「へえ。北欧の菓子とかコーヒーとか言われても、お母さんはわかんない。ね、何がオススメよ?」
カフェでも偉そうな母に明日香は頭が痛い。閉店間際で他に客がいない事が嬉しいぐらい。
「申し訳ございません、お客様。もう閉店間近で、ケーキやパン類はほとんど売り切れなんです。北欧風のドーナツとドリンク類はご用意できます」
そこに店長がすっとんで来て助け舟を出してくれた。
「え、岡辺さんのお母様? 本当ですか!?」
母と店長は雑談もし始めた。なかなかオーダーもしない母は何しに来たんだろうと明日香は首を傾げる。
とりあえず母が何かしでかさないか、ソファの近くに行き、それとなく監視した。
「ねえ、店長さん。イケメンねぇ」
「いえいえ」
しかし明日香が側にいた効果はない。母は店長におばさんらしい無礼な態度をとり、明日香は居た堪れず、下を向くしかない。店長がニコニコと笑顔なのが本当に救い。もし店長がいなかったら、この場は凍りついていただろう。カウンターの方にいる猫のムンキも呆れたように欠伸をしていた。
「そういえばこのカフェ。悩んでいる人だけが行けるっていう噂があるけど、本当?」
「お母様、そんな事はないですよ。このカフェは誰でも自由に入れるんですから」
「へえ。単なる噂だったの?」
家での態度と違う母。家でむっつりしているのは何だったのだろう。明日香は顰め面になるが、ようやく母がベリーのジュースを注文。明日香は一人、厨房に作りに向かった。
これは店長が作っているベリーのジュースだが、グラスに注ぐだけ。氷が苦手な母のために、何も入れずに持っていく。みずみずしいベリーの赤色が綺麗。母もそれを見ているだけでリラックスして来たらしい。もっと店長に絡んでいた。
「ねえ、あの苺のケーキはないの? 明日香がお土産で貰ってきた苺のケーキがおいしくてねー」
店長が優しい事に甘え、絡んでいる母。もう帰って貰おうかと思った時だった。
なぜか店長は母の目の前の椅子に座った。そうして何も口を挟まず、母の話を聞き始めた。
最初は苺のケーキの事ばかり。クリームがあ甘かったとか、スポンジが柔らかくて年寄りにも食べやすかったとか。
「何で今日は苺のケーキないのよ」
「ちょっとお母さん、いい加減にして」
明日香はついに口を挟むが、店長は相変わらずニコニコしているだけ。
「申し訳ございません。苺のケーキはスペシャルなケーキで、予約制なんです。誕生日、就職、卒業、退職ばなどのお祝いのケーキで、人生の節目にフィンランドで食べるものですね。あ、結婚した時も食べます。私は独身なので、実際にその時に食べた事は無いですが」
店長はこんな母にも相変わらず丁寧だった。明日香もこの話は聞いた事があったが、店長が独身なのは初耳だった。明日香は思わず店長の左手を見たが、指輪らしきものは何もなかった。
「結婚か。へぇ……」
一方、母はその言葉に敏感の反応。家にいる時のように無言になってしまった。
カフェは沈黙していた。猫のムンキですら大人しい。
数分間静かだったが、母はベリーのジュースをこくこくと飲み干すと、ようやく話し始めた。最近、友人が離婚した。友人は離婚後、趣味や仕事に邁進し、急に自分の人生に疑問を持ったという。
「そもそもウチの旦那は好きじゃなかった。幼馴染で親友だったから。ものすごい熱い恋愛感情もなくてね。今になって本当に旦那と結婚してよかったのか疑問になって」
その母の発言は衝撃だった。明日香は何も言えない。思えば両親の馴れ初めを聞くのは初めて。しかもこんな色気がない馴れ初めというのも予想外だった。
「正直ね、恋愛感情はゼロ。もちろん、旦那は真面目でいい人ではある。夫や父親としては最高よ。浮気もしない。ギャンブルや酒もしない」
ハァと母は深くため息をこぼす。本当はドラマのような恋愛もしてみたかった。韓国ドラマやアメリカのロマンンス小説の主人公みたいになりたかったと、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
母の態度のおかしさの理由がわかった。今でも背筋を伸ばし、真面目そうな母の内面を知ってしまい、明日香は恥ずかしいやら、情け無いやら。全く言葉が出ない。この歳になってもエンタメのヒロインのようになりたいと愚痴をこぼす母を見ていたら、大人でも未熟さは確実にあると理解した。こんな未熟な母の言葉にいちいち傷ついていた事が明日香は恥ずかしく、頬が熱くなってくる。
「でも」
しかし店長は、ここでようやく声を上げていた。
「でも、長い間、ずっと同じ人と一緒にいるのは立派です。私の本業はキリスト教の者ですが、聖書で結婚は契約です。一人の人と浮気せず、一生を添い遂げたら、聖書ではそれでオッケーなんですよ」
「え、聖書の結婚観ってそんなんなんですか?」
これには明日香も驚き声が出た。
「ええ、岡辺さん。愛は感情じゃない。約束を守ってたら聖書的にはオッケー。まあ、だからうちの両親も結婚記念日に苺のケーキを食べるのか? 人生の節目として、ちゃんと約束を守れたお祝いのケーキ」
店長は自身の顎をなでつつ、呟くように言う。
「え? 結婚ってそう?」
一方、母は目が丸くなっていた。
「だったら私と旦那の結婚は、間違ってはいなかったの?」
戸惑いでいっぱいの母に店長は穏やかに笑い、頷く。
「ええ。愛は感情じゃないです。シンプルに約束です」
念も押していた。
「そっか。なーんだ」
母の力が抜けた声。拍子抜けしたのだろう。
「私、エンタメのヒロインみたいになれなくてもオッケーだったんだ。なーんだ。キラキラしなくても、ドラマチックじゃなくても、ね?」
なぜか母の力が抜けた声が、明日香の心にも響く。人生に迷子になり、動画サイトでインプット地獄にもなっていたが、成功しなくても地味でも、スキマバイトの今でもいいんじゃないかと気づいてしまう。明日香自身も何かキラキラしたエンタメ風ヒロインにならなきゃいけないと思い込んでいたと気づく。インプット地獄になり、誰か別人の価値観が正しいんだと思い込まされていた。結局、何者かになれなくても、それで良いのかもしれない。
「ねえ、店長さん。そういえば来週、結婚記念日だわ。旦那とこのカフェ来てもいい? 苺のケーキも注文できる?」
「ええ、もちろん!」
店長の明るい声が響いていた。
後日、本当に母は父と共にカフェにやってきた。二人とも普段着で、苺のケーキを前にしても無言で食べていた。
結局、母の態度も元に戻り、明日香も小言を言われるようになったが、両親の間の険悪ムードも消えた。いつものようにリビングでテレビを見ながら笑い声が響いている日常だ。
一方、明日香も動画サイトのインプット地獄を完全に辞めた。そこにはキラキラと成功した人の姿しかない。インフレエンサーや人気カウンセラーなど。いつの間にかキラキラと何者かにならないと思い込まされていたが、もう今はこの日常に不満も持てなくなってきた。同時に夢や希望みたいなものも消えてしまったが、過度に人生を成功させなくて良いと思うと、肩の荷もすーっと軽い。
「ありがとうございます。岡辺さんのお父様もお母様もまたカフェに来てください」
店長は笑顔で両親を見送る。相変わらず両親は無言で、あまり話さなかったが、明日香は汚れた皿やカップを片付け、厨房の流しまで運ぶ。
今はここでバイト中だ。まずは仕事。ぼんやりと考え事をする暇もなく、流し汚れて食器を丁寧に洗っていく。今は目の前の事を丁寧にこなすのが一番かもしれない。
「岡辺さん、お疲れ様。ご両親も帰って行ったよ」
そこに店長が厨房に入って来た。
「店長、お疲れ様様です。……それにしても愛は感情じゃないって、すごいハードル落ちますね」
明日香は流しで手を動かしつつも、あの時の店長の言葉を思い出す。
「そう? まあ、仕事もそうかもね? 聖書では別に成功しろともキラキラしろとも言って無いし、なんか仕事してたらオッケーだよ。お金稼げないボランティアとかも聖書的には仕事だと思うし」
いつになく店長の声は、ホットミルクのように優しい。明日香の目の奥はつんと痛くなる。
「別にバイトでも派遣でも何でもいいんじゃない? もう岡辺さんは満点だから。うちのカフェも手伝ってくれて本当に助かってる。いつもありがとう」
そんな事までいわれてしまい、明日香は口の中を噛んでしまう。泣かないように我慢していた。
「店長、ありがとうございます」
その明日香の声は少し震えていたが、店長は何も気づいていない。
「まあ、もし良いところに内定が出たら、お祝いに美味しいケーキを作ろう」
「それって苺のケーキですか?」
「いや、ドリームケーキにしよう。北欧のケーキで、本当はドリームロールケーキという名前で日本ではあんまり有名ではないんだが、ウチでは日本人でも呼びやすいよう……」
店長の声を聞きながら、明日香の頬がゆるむ。今はお祝いのケーキを目標に転職活動をしてもいいか。迷子中の今は美味しいケーキを道標にしたら、頑張れそう。




