第六章 頂への壁
空港の滑走路を見下ろす窓辺で、直樹は小さく息を吐いた。
搭乗を待つ人々のざわめきが、どこか遠くに感じられる。
行き先はチェコ。そこで開かれるFIDE公式のグランドマスター・オープン。
この大会で、直樹は初めてGMノルム──グランドマスターになるための実績──取得の条件が揃った対局に挑むことになる。
インターナショナルマスター、グランドマスターも出場する、“プロの世界”だった。
気を抜けば、駒一つで切り刻まれる。
大会会場は、旧市街の近くにある歴史ある建物だった。
大理石の床、重厚な扉、そして静まり返った空気のなかに、戦いの匂いが漂っている。
初戦。ハンガリーの老練なインターナショナルマスター。ポジショナルプレイの達人。
呼吸を整えて席に着く。
盤を整え、駒を並べると、ゆっくりと対局者が現れた。
背筋の伸びた白髪の男が、直樹の名札をじっと見つめる。
「若いな…」
それだけ言うと、無言で手を差し出してきた。直樹はその冷んやりとした手を握る。
──ゲームが始まった。
相手が数手先を読んでいるのがわかる。直樹の動きを試すように、わずかな“罠”を散りばめていた。
十手目あたりで、汗が滲んできた。
自分の培ってきた深い読みを頼りに、必死に喰らいつく。
二十手目、相手のナイトを中央で制し、バランスが少し傾く。
だが、三十手を過ぎたあたりで、直樹の時間が減っていた。
一手を指すたびに数分が飛ぶ。相手は、それを計っている。
──四十手、五十手。
ルークエンドゲーム。
時間はほとんど残っていない。
五十三手目、ギリギリで引き分け提案をした。
老練は盤を見つめたまま、数十秒黙り込んだ。
「…受け入れよう」
その瞬間、ようやく息が吐けた。
大会は始まったばかりだった。
二戦目、三戦目と、強豪との戦いが続く。
すべてが限界だった。そして、七回戦終了時点、四勝二分一敗。
GMノルム取得の条件を満たすには、残り二戦全てを勝ち、もしくは引き分けにしなければならない。
休憩を挟み、八回戦が始まった。
──もう、手はないのか。
終盤、時計の針が残り三分を切った頃、直樹はそう思った。
盤面には、回収できない傷が残っていた。
対戦相手はポーランドのグランドマスター、ヤヴォルスキ。
直樹にとって、初めてのグランドマスターとの対戦だった。
白番の直樹は、序盤から積極的に攻めた。
ポーンの突き合い、中央の主導権争う。だが、相手は重厚だった。
反応ではない。構造そのものが違った。
読みの深さも、終盤の正確さも、全てにおいて一段上。
三十手を越えた時点で、直樹ははっきり感じていた。
──この人は、自分が“考えている手”を、もう先に読んでいる。
そして四十手目、ナイトの配置ミスを突かれた。自身の手が間違いだと分かったのは、五手後だった。
回収できない駒損。ポジションの崩壊。
じわじわと迫る終焉。
盤面に、勝ちはもうなかった。
直樹は駒に手を伸ばしかけて、けれど、そのまま俯いた。
「──投了します」
その声は、かすれていた。自身のキングを倒す。
向かいのヤヴォルスキが静かに頷き、わずかに目を伏せた。
対局室を出た瞬間、冷たい空気が頬を打った。
直樹は真っ直ぐ歩けなかった。宿までの道。石畳が、妙に不安定に感じる。
何も考えたくないと思いながらも、頭の中では、敗着となった手目が、何度も何度も再生されていた。
──自分には最初、あればミスだとすら気づいていなかった。
喉が乾く。目の奥が熱い。
ホテルの部屋にたどり着くと、ベッドに沈み込んだ。
スマホの電源は切っていた。見たくなかった。誰の声も、聞きたくなかった。
今日、自分が敗れた相手、ヤヴォルスキ。
その一手一手には、圧倒的な視野と深い読みがあった。
直樹には見えなかったものが、あの男には当たり前のように見えていた。
それは、ただの実力差ではない。“次元”の違いだった。
──俺が、あんなチェスを指せるようになるとは思えない。
努力すればいつか届く。そんな言葉すら、どこか嘘くさく感じる。
初めて戦った、グランドマスター。その存在はあまりに遠く、あまりに高い。
ふと、ロンドンでの日々の中で、ミランダが口にした言葉を思い出す。
「私には…“ここまで”っていう限界があるってこと」
直樹は天井を見つめる。
──自分も、ここまでだったのかもしれない
小さな声が、心の奥で囁いた。
翌日の最終ラウンド、直樹はあっさりと負けた。
GMノルム取得条件、未達。




