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第四章 公式大会へ

 父の転勤が終わり、ロンドンでの二年に及ぶ生活は幕を閉じた。

帰り際、空港の搭乗ゲートには仲間たちが見送りに来てくれた。ミランダが口を開く。

「ねえ、日本に帰っても、たまには連絡ちょうだいよ? あと…住所、教えて」

直樹がきょとんとしていると、ミランダは笑って言った。

「“いつか、絶対遊びに行くから”って、約束しとくわ」

その言葉に、直樹は少し照れくさそうに頷き、携帯を取り出してローマ字で新しい住所を送信した。


 再び暮らすことになったのは、東京郊外にある住宅地。

新しく編入された中学校は、典型的な日本の公立校だった。

「え、チェス?…あー、なんか海外のボードゲームだっけ?」

自己紹介のあと、何人かの男子に囲まれた直樹は、少しだけ言葉に詰まった。

将棋部はある。囲碁部もある。でも、チェスはない。

図書室にあるチェスの本は一冊きり。ルールの概要しか載っていない薄い児童向けの参考書だった。

ロンドンで過ごした密度とは、あまりに違いすぎる。

それでも、辞めようとは思わなかった。

チェスは、もう彼の“居場所”だった。

どこにいようと、それだけは変わらない。


 そして、直樹は動き出す。

ある晩、パソコンの前で少年は深く息を吐いた。

「チェス グランドマスター なる方法」で検索。

表示された画面の中で、直樹は一ページ選択する。初心者向けのサイトだった。


グランドマスターになるには?|チェスの称号まとめ(初心者向け)

1. FIDE(国際チェス連盟)に登録

 → 世界共通のチェスIDを作る。公式戦に出るために必要。

2. 公式大会に出場

 → 海外の大会で強い人と戦う。何回か勝って記録を残す。

3. GMノルムを3つ取得

 → 「グランドマスター級の成績だった!」と認められる実績。3回必要。

4. レーティング2500以上

 → 世界の頂点レベルの強さ。めちゃくちゃ難しい。


つまり、「強い相手と」「公式の場で」「何度も勝つ」ことが求められる。

けれど、それはロンドンで聞いた話と、何も変わっていなかった。


 放課後。家に帰った直樹は、パソコンの前に座ると、オンラインのチェスゲームを開く。

現実でできない分、インターネット対戦で練習しようとしていた。

マウスのクリック音が響く。相手はインドのプレイヤー。

一手、また一手。読みを進め、引いては攻め、誘い込む。勝ち。

オンラインでの対戦を重ねることで、直樹はさらにチェスの実力を高めていた。

だが、いくら勝っても、それが“公式の場”でなければ、FIDEレーティングは上がらない。実績も得られない。

──どこかで、世界(公式大会)に出なければ。


 日本に帰国して一年。直樹が十四歳になる年だった。

朝焼けの空港は、どこか無機質で、乾いていた。

金属の床をキャリーケースが静かに転がる。空港内のアナウンスは英語混じりで、どこか現実感がなかった。

初めて一人で乗る飛行機の行き先は──マレーシア。

オンラインの国際ユース大会で好成績を収め、FIDEのアカウントが認証された直樹は、FIDE公認のインターナショナル大会に、個人で出場することが決まった。

初めての国で、目の前に相手がいるチェス。

直樹は静かな緊張の中、窓から見える飛行機を見つめていた。

 

 現地の空気は、日本よりもずっと湿っていた。

空港を出た瞬間、むっとする熱気と排気ガスの混ざった匂いが鼻にまとわりつく。

 大会は、郊外のホテル内で開催されていた。

ロビーに入ると、すでにチェス盤を抱えた少年少女たちが集まっていた。

肌の色も、言葉も、目の色も、全部バラバラだ。

受付に行き名前を告げると、女性が笑顔で出場者IDとネームカードを渡してきた。

「第一回戦はボード23。白番です。──幸運を」

息を呑む。

いよいよ、初めての公式の実戦が始まる。


 対戦相手は、東南アジアの少年だった。

こちらをじっと見据え、何も言わずに椅子に座る。

初手、直樹は少しだけ、指が震えた。

それでも、手は進む。

今まで培った感覚を頼りに、ゆっくりと相手の意図を誘導していく。

"誘い"からの切り返し、急所を突く一手。

ミランダとの戦い、日本でのオンライン対戦を通して、パーカーが言った"戦い方"はほとんどその形を成していた。

そして四十五手目。

相手のキングは、逃げ場を失った。

「チェックメイト」

声に出すと、喉が乾いているのが分かった。

相手は静かに頭を下げると、何も言わずに席を立った。

勝った。

今までで一番、重く、そして静かな勝利だった。


 その後の数日間、直樹は盤の上で闘い続けた。

世界各国の異なるスタイル、異なる速さ、異なる癖。どんな相手だとしても、直樹の指し方には“軸”があった。

攻め込まれても、崩れない。

静かに相手の読みをいなし、必要な瞬間にだけ切り込む。

動かず、誘い、そして断ち切る。

結果、直樹は大会を五勝二敗で終える。

惜しくも入賞は逃したが、その日、初めて直樹のFIDEレーティングが登録されることになった。

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