第二章 初めての実戦
「ナオキ、チェスクラブ来る?」
休み時間、先日図書室で借りたチェスの本を読んでいると、隣の席の少年がそう言った。
栗色の髪、そばかすのある白い肌。彼の名前はマシュー。
クラブ──日本で言う部活のようなものだろうか。
「実際に駒を触ったことないんだけど...」
マシューは一瞬目を瞬かせたが、すぐに親指を立てて答える。
「初心者大歓迎だよ。昼休みにルーム2Cでやってる」
昼休み、マシューに言われた通り2Cの教室を訪ねると、中には六人ほどの生徒たちがいた。
机がいくつか並べられ、その上にはチェス盤が置かれている。白と黒の駒が整然と並び、誰かが駒を動かすたび、コツンと軽い音が鳴った。
その空間だけ、時間が止まっているように静かだった。
「ナオキ、ここ!」
マシューが手を挙げる。指さした席に腰を下ろすと、目の前の盤には白の駒が整えられていた。
「君が白番。僕が黒番ね」
白番、つまり先手。小さな緊張が走る。
マシューの前には、光沢のある黒のクイーンが凛と立っていた。将棋とは違い、キングの隣にいるこの駒が、チェスで最も強力な存在らしい。
直樹はゆっくりと手を伸ばし、中央のポーンを2マス前進させる。オーソドックスな初手だ。
ゲーム、開始。
マシューの手がすぐに返ってくる。
次に、ナイトを定石の位置へ出す。そこまでは本で読んだとおり。
けれど、三手目から違和感が広がっていく。
ナイトが思いがけない位置に跳ね、ビショップが空いた隙から直樹のキング側を覗いてくる。
数手のうちに、直樹の防御陣は破られた。まるで、見えない手で誘導されているようだった。
──崩された。
盤面の中央がごっそり持っていかれた感覚。
将棋ならこの状況でも逆転の糸口があるが、チェスは取った駒を使い回せない。
形勢不利がそのまま、終わりを意味する。
「チェックメイト!」
あっけなく、黒のビショップに王が詰められた。
肩の力が抜ける。緊張していたことに、そこで初めて気づいた。
「グッドゲーム!」
マシューが笑って続ける。
「もう一回やる?」
直樹は黙って頷いた。
二局目。
──緊張しなくていい。将棋と同じように、盤面を"読もう"。
序盤、一局目と同じ展開。マシューもナイトを出してきた。
ここで直樹は、じっと盤面を見つめた。
相手の次の手を“読む”。
──おそらく、次に出るのはビショップ。
それを封じるように、直樹はポーンを前進させる。
マシューの指が止まった。一瞬だが、迷いが見える。
攻める。ポーンを交換し、ナイトを跳ね、ビショップで相手のキングを横から抑えにかかる。
相手のキャスリング──キングを安全な位置へ配置する動き──を崩すように駒を誘導して、
「チェック」
マシューのキングが追い詰められていく、ルークも助けに入れない。
そして数手後、直樹は黒のキングの逃げ道をすべて塞ぎ、ゆっくりとビショップを差し出した。
「…チェックメイト」
瞬間、マシューが目を見開いた。
「…え!ナオキが勝った!?」
マシューは大声で言葉を重ねる。
「すごいよ!ナオキ今日初めて駒触ったんでしょ!?」
周囲のメンバーも駆け寄ってきた。誰からともなく棋譜を振り返り、紙に書き出し始める。
今日初めて実戦を行った初心者に、同じクラブで切磋琢磨してきた仲間が負けた。その一局の内容が気になって仕方がない様子だった。
何人かがナオキの肩を叩きながら声をかける。言葉は全て聞き取れなかったが、「認められた」ことは分かった。
その日の放課後、帰ろうと教室を出た直樹のもとへ、一人の教師が近づいた。
長身の男。グレーのジャケットに、細い眼鏡。冷たい印象の瞳。
「君が、今日マシューを倒した子か?」
直樹が小さく頷くと、男は目を細めた。
「私はパーカー。チェスクラブの顧問だ」
男は周囲の喧騒をよそに、静かな声で続けた。
「マシューとの棋譜を見させてもらった。面白いチェスを指す少年だ。まだまだ荒削りだが、光るものがある」
直樹は戸惑いながらも、その真っ直ぐな視線に目を逸らせなかった。
パーカーは一歩近づき、静かに言う。
「チェスクラブに入りなさい。君に、チェスを教えよう」
少し面食らったが、直樹は黙ったまま頷く。自分の気持ちは、はっきりと見えていた。
──この戦場で、もっと戦ってみたい。