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序章 空の玉座

 「チェスには昇格(プロモーション)という面白いルールがある」

白と黒の盤の向こう側、男はふっと目を細めた。

窓の外では、昼下がりの雨が静かに音を立てている。

少年は、黙ったままその言葉に耳を傾けていた。

「最弱の駒であるポーンが盤の端まで辿り着くと、最強の駒、クイーンになれる。不思議だろ?」

男の声は落ち着いていたが、その眼差しにはどこか熱が宿っていた。

「だからチェスでは、たった一つのポーンが、勝敗を分けることがある。駒の強さじゃなく、“どこまで行けるか”が問われるんだ」

そして彼は、盤の上に立てた指をそっと止めた。

「──君も同じさ。今はまだ、小さなポーンに過ぎない。だけど、この戦場を生き抜ければ…やがて、最強になれる」

その口元に、ニヤリとした笑みが浮かぶ。


◆ ◆ ◆


 神谷直樹(かみやなおき)、十一歳。将棋好きの少年だった。

祖父の影響で、放課後は将棋道場へ通っていた。教室では特に目立つわけでもない。けれど、彼の中には確かに──“盤面を読む力”が宿っていた。

相手の狙いを先回りして打つ。五手、十手先を考えられる。年齢に見合わぬその読みは深く、正確だった。

「三四歩…二五飛。お前、そんな順見えるのか!」

道場の年上の子が、苦笑混じりに感嘆する。

将棋盤の上には、直樹の世界があった。

先を読む快感。相手の手の裏をかく興奮。負けた悔しさ。勝ったときの嬉しさ。それは、教室の喧騒とも、運動場の汗とも違う、静かで熱いものだった。


──けれど、その世界はある日、唐突に終わりを告げる。


 「ロンドンに、引っ越すのよ」

夕食の席。母から出た言葉に、直樹の箸がぴたりと止まった。

転勤族の父に連れられて、これまでも何度か引っ越しは経験してきた。だから今、父方の実家──この町にある祖父の家で暮らしている。

けれど、ロンドンという響きは、あまりに現実味がなかった。

一瞬、何かの聞き間違いかと思ったが、隣に座る父は真剣な顔で頷いている。

祖父だけが何も言わず、茶碗の中の白米を、ぽつりぽつりと箸でかき混ぜていた。

「お父さんの転勤でね。直樹も友達と離れて寂しいと思うけど、大丈夫。きっとすぐ慣れるわ」

こちらの様子などお構いなしに、淡々と母は言葉を重ねた。


 直樹はその夜、祖父の部屋に行き、黙って将棋盤を取り出した。

外は雪で、座敷の空気がいつもより澄んでいる気がした。

祖父は黙って座り、駒を並べ始める。

その夜の将棋は、どちらが勝ったのか、覚えていない。

ただ最後に、祖父が言った。

「将棋のない国でも、似たようなゲームはあるだろ」

「…どうせ将棋の方が面白いよ」

直樹の言葉に祖父がいつものように笑ってくれたことだけが、少し嬉しかった。


 数週間後、直樹はロンドンの空の下に立っていた。

冷たい雨。灰色の街並み。吐く息すら濡れるような、重たい空気。

そして、新しい学校。

教室に入ると、机の並ぶ風景にすら異国を感じられた。配られた教科書の文字は、一つも頭に入ってこなかった。

放課後、直樹は一人で帰路についた。

濡れた石畳を踏みしめながら、ランドセルではなくリュックを背負った自分が、どこか他人のように感じられた。

日本の将棋盤は、この国にはなかった。


──でも、"王様"は、やっぱりどこにでもいた。


 ロンドンに来て数ヶ月。ある程度英語も話せるようになり、友人もぽつりぽつりと出来始めた時だった。

放課後、暇を潰すためにふらりと入った学校の図書室。その奥のほうで、彼は一冊の本に出会う。


『Chess for Beginners』


黒と白の盤。馬のような駒、十字架を乗せた王様。見たことのない配置。けれど、どこか将棋に通じるものがあった。

「…おじいちゃんが言ってた、将棋と似たようなゲーム...」

ページをめくっていくうちに、直樹の指先が震えていた。動きが違う。ルールも違う。それでも、駒が、読みが、未来を決めていく。あの感覚が、また指先に宿っていた。

そのときだった。巻末の人物紹介のページ。世界で名の知れたプレイヤーたちの写真と、ある称号が記されていた。


──Grandmasterグランドマスター


その言葉に、目が吸い寄せられた。

──チェス界最高の称号。チェス人口数千万の中で、それを持つの者は0.001%以下。まさに、盤上の覇者──

ページをめくりながら、直樹は思った。

この人たちは、多分"読み"の最果てにいる。

思考だけで世界の頂点に立った、王の中の“王”。

そのとき、ふと気になって本を閉じた。カバーの裏に貼られた、薄汚れた付録表。

広げると、そこには国別の歴代グランドマスターが書かれていた。直樹は思わず、日本の欄に目をやる。


「日本」:記録なし


その一文に、直樹は息を飲んだ。

日本にいなかった?

誰も届いていない?あの将棋の──"読み"の国で?

その瞬間、胸の奥で微かに火が灯った。

遠くに聞こえる放課後のチャイム。外は相変わらず雨だった。けれど、そのとき直樹には見えていた。黒と白の盤の向こう側、誰もまだ辿り着いていない世界の頂。

「俺が…なれるかな」

その呟きは、誰にも聞かれないように、小さく空へ消えていった。

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