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転職を繰り返した女(解決編) 10度目の転職

梨華が初めてユキナの待つ雑居ビルを訪れてから、半年近くが経過した。

「このまま派遣社員を続けていても人生はなんとかなるだろう」という油断が生まれたわけではない。けれど、今すぐ焦って転職活動をするだけが解決策ではないと、梨華は思い始めていた。


そんなある日、ついにユキナが梨華に求人票を紹介してくれた。自分への客観的評価を確認するのが怖かったので直接聞かなかったけれど、「他人と比較するクセに、他人との競争からは逃げる」という状態から、少しは改善したと評価してもらえたのだろうと、梨華は思った。

実際、半年前よりも確実に「立派な人間」に近づけたという実感が、梨華にはあった。そのことが梨華を元気づけ、さらに人生を好転させようというモチベーションに繋がっていた。


ユキナが紹介してくれた正社員の求人は、ウォーターサーバーの飛び込み営業と、ホテルの清掃スタッフの2つだけだった。これらはいずれも、以前に梨華が忌避したことのある求人だ。

この2つ以外にも求人を見せてもらえたけれど、それらは全て、契約社員またはアルバイトでの募集だった。ユキナが働いている転職エージェントのグループ企業に派遣会社が存在するらしく、そちらの紹介もされた。


ユキナが、

「好きな求人を持ち帰っていいのよ。ほら、大手企業の事務職の求人だってあるわ。契約社員だけどね」

と言いながら挑戦的な目を向けてきたけれど、梨華はたった2つの正社員の求人だけをカバンに入れた。その横顔を、ユキナは満足そうな様子で黙って見つめていた。


ウォーターサーバーの営業は、基本給が18万円だった。これは、2025年の東京の標準から考えると、かなり低い金額だ。派遣社員や契約社員はもちろん、大学生のアルバイトですら、時給換算をすればもっと良い待遇で雇われていてもおかしくない。梨華のような実家暮らしの人間であれば生活に支障はないけれど、仮に一人暮らしをすることを前提とすると、相当切り詰めた生活を強いられるであろう金額だった。

ボーナスは成績次第らしく、24歳で年収1,000万円を超えた事例もある旨が、求人票の目立つ位置で大々的にアピールされていた。31歳の梨華は、このような記載に今さら期待をするほど、純粋ではなかった。


ホテルの清掃スタッフの求人は、「週休二日制」だった。就職転職界隈ではもはや常識レベルの話ではあるが、「週休二日制」と「完全週休二日制」の意味は大きく異なる。梨華は、満足なキャリアを築けていないクセに、この手の知識だけは人並み以上にあった。

求人票をよく見ると、1か月の休日数が6日であることがわかった。閑散期には連休が取れると書いていたけれど、それをふまえても、年間休日数が法律の定める最低ラインを下回っている疑いがあった。


一応、ユキナからは、

「うちのエージェントの審査部が、法令違反している企業の求人は弾いてくれてるハズよ」

と、いうコメントをもらった。しかし、ユキナはその後、

「まぁあの人たち、わりと適当だから責任持てないけどね」

とも付け足していた。


数年前の梨華であれば絶対に応募しなかったであろう2つの求人。けれども、半年かけて準備をして得た大事な大事な求人だった。ユキナに求人を見せてもらった時から、梨華は2つとも応募することを心の中で決めていた。


梨華には、思い付きで行動してしまうのが自分の悪い癖だという自覚があった。なので、求人を持ち帰った後、1週間程度の時間をかけて、応募するかを再検討した。

応募先をどちらか1つに絞ろうかとも思ったけれど、最終的に、両方の求人に同時に応募した。いくら不人気そうな求人とはいえ、31歳になるまでまともなキャリアを築いてこなかった梨華が内定を得られるかは、未確定だったからだ。せっかく得られたチャンスを自ら捨てることはしたくなかった。


梨華の心配とは裏腹に、ウォーターサーバーを販売している「ミネラルアップ」という会社からは、1回の面接で内定がでた。正直、元気よく働いてくれれば誰でもよかったのだろうと思う。面接時間は15分程度と、極めて短かった。

ユキナに確認したところ、この手の実力主義がきっちりと報酬に反映されている企業は、成果を残せず生活が苦しくなった社員が次々と辞め、社員の新陳代謝が早いので、常に正社員採用に積極的なのだと教えてくれた。

正社員は簡単にクビにできないので、通常の企業であれば採用に躊躇する。しかし、正社員の側が自ら短期間で離職して消えていくような企業では、その常識は通用しないのだそうだ。


ミネラルアップから2週間程度遅れて、「さくらんぼホテル」というホテル会社からも内定が出た。こちらは面接が2回あった。面接では、休日が少なかったり夜勤が多いけれど大丈夫かと何度も確認された。そのたびに梨華は、

「体力はある方ですし、精一杯頑張ります」

と、答えた。テニスで日に焼けた姿も相まってか、面接官は納得してくれたようだった。


つい半年前までは仕事を選べなかった梨華に、急に2つの選択肢が生まれた。

ミネラルアップは残業は少なそうだけれど、成果を残せなければかなりの低賃金で働くことになるうえ、ノルマを厳しく管理されながら飛び込み営業を行うという業務内容は、精神的にキツそうだ。

一方のさくらんぼホテルは、一人で行う業務が多く精神的には楽そうではあるけれど、休日が少なく肉体的にはかなりの負荷がかかることが予想された。また、こちらの求人も、時給に換算すると、結局は低賃金であることがわかった。


しばらく悩んだ結果、梨華は、「ミネラルアップ」に入社することを選んだ。これからもミキコとテニスを続けるための時間を確保したかったというのが一番の理由だったけれど、もうしばらく実家暮らしを続けることで金銭的な不安が和らげられるというのも、考慮要素の一つだった。


結局、梨華はまた、両親というセーフティネットを利活用することにした。この話を母にして頭を下げると、母は、

「そんなこと考えてたんだ」

と驚いた後、

「お父さんの遺産もあるし、お母さんのことは気にせずに頑張りなさい」

と、応援してくれた。梨華はその日、母に深く感謝するとともに、いつもよりも少しだけ長い時間、父の仏壇の前で手を合わせた。


ミネラルアップに入社すると、初日に自社商品の説明を軽くされただけで、翌2日目からは先輩社員について営業に回ることになった。先輩と言っても、アキラは25歳であり、梨華よりも7歳も年下の男の子だった。お世辞にも学があるとは言えないタイプだったけれど、明るく元気で、担当エリアの家を訪問しては断られるという繰り返しの中でも、全く落ち込む姿を見せなかった。


「年下の先輩」という存在に苦手意識があった梨華でも、なぜかアキラとは自然な会話ができた。後になって気づいたことだが、これもアキラのコミュニケーション能力の一部だった。


ある日、求人票に記載されていた「24歳で年収1,000万円稼いだ事例」が、アキラのことだと判明した。梨華がアキラを褒めると、アキラは、

「あれは去年マグレで契約取れただけっすよ。今年は700万円です。うちの会社、その辺シビアなんで」

と、言った。梨華が、

「700万円でも十分すごいじゃない」

と言うと、アキラは、

「俺、競馬とかですぐにカネ使ってしまうんですよね。この前の有馬記念は一応10万円くらい勝ったんですけど、その帰りに仲間とキャバクラ行ったら結局マイナスになっちゃって」

と、今度は自嘲気味に笑った。


アキラは、他にもいくつか、お金の使い方で失敗した話をしてくれた。せっかくお金を稼いでいるのにもったいないと思ったけれど、楽しそうに失敗談を語るアキラを見ていると、その指摘は野暮なものだと理解した。お金を稼ぐということは、他人から見ると、あるいは自分自身から見ても無駄なことに、自由にお金を使えるということなのだと思った。


アキラと一緒に移動している最中、アキラから、

「梨華さんって、なんでこの仕事やろうと思ったんですか? 正直キツいっすよ」

と、聞かれたことがあった。


新卒の頃の梨華であれば、「お客様に喜んでもらいたくて」などと白々しい回答をしていた場面だろう。非正規社員を転々としていたころの梨華であれば「他に雇ってくれる求人がなかったから」などと身もふたもない回答をしていた場面だろう。

でも、梨華はこの時、少し考えたうえで、

「もう一度、頑張ってみたくなったからかな」

と、回答した。これは、梨華の偽らざる本心だった。アキラは、あまりピンと来ていない様子だったけれど、それ以上何も聞いてこなかった。


アキラと一緒に行動をした期間は、わずか1週間だった。2週目から、梨華は一人で営業先を回るようにと指示された。最終日に梨華が礼を言うと、アキラは、

「これからはライバルなんで、お互い頑張りましょうね」

とだけ言って、一足先にオフィスから出て行った。アキラは、営業先以外では、比較的無口な人だった。


1人で行う訪問営業は、梨華が想像していた以上に大変だった。正直、アキラと一緒に行動をする中で、「意外と何とかなるかもしれない」と思い始めていた。しかし現実は、まるでなんともならなかった。

入社して1か月、つまりアキラのもとから独り立ちして3週間経っても、梨華はただの1件の契約すら得られなかった。この月の梨華の賃金は基本給の18万円のみであり、手取りにすると15万円にも満たなかった。おまけに、上司から厳しく叱責された。上司曰く、

「契約を取れなければ、何のためにお前を雇っているのかわからない」

とのことだった。


上司だけでなく、客先で怒られることも辛かった。インターホンを無言で切られたり罵声を浴びせられたりするのはまだマシな方で、客が本社に連絡をして、実際にはやっていない梨華の問題行動をでっちあげられたこともあった。


梨華と一緒のタイミングで入社した人は、梨華の他に3人いた。けれど1か月後には、既に1人が辞めていた。さらにもう1か月たつと、梨華以外の同期は社内にいなくなった。それでも、梨華は辞めなかった。上司は「早く自主退職してくれ」という意思を隠そうともしなかったけれど、ここで短期離職をすると全てが台無しになってしまうと思ったし、そもそも、以前よりは辞めたいと思わなくなっていた。


その理由の一つは、定期的に行われるミキコとのテニス練習会だった。一通り汗をかいた後、会社での出来事をミキコに話すと、ミキコは、

「大変ねぇ。人手不足の世の中だし、探せばもっとマシな仕事ありそうな気がするけど」

と、言いながら、いつまでも梨華の話を聞いてくれた。


ミキコも梨華の職歴を知っているので、気を遣って話してくれていた。少し申し訳ない気持ちもあったけれど、それでも、ミキコに聞いて欲しかったので、梨華もネガティブな発言をしすぎないよう気を遣いながら会話をした。

アキラと会話した時もそうだったけれど、「ある程度気を遣いながら本音を話す」というバランスのよい会話に、梨華は慣れ始めていた。

ミキコと仕事の話をしていても、梨華は全く嫌な気持ちにならなかった。そしてまた、一緒にテニスの練習に励んだ。


梨華が初めてウォーターサーバーの販売に成功したのは入社からちょうど2か月が経過しようとしていた頃であり、相手は同じテニスサークルに所属する普段あまりかかわりのないメンバーだった。

別に、梨華の方から積極的に売ろうとしたわけではない。お酒を飲みながら仕事の話をしていた時に、たまたま購入を検討しているというメンバーがいて、後日契約してくれたという経緯だった。

その結果、入社2か月目の梨華の給料は、前月のそれよりもほんの少しだけ多くなった。


ここからの梨華の人生は、明確に、そして加速度的に、好転し始めた。知人経由とはいえ1件目の契約ができたことで、どういうわけか訪問販売でも契約が取れ始めた。

会社での成績が少し良くなったことで収入が増え、それによって人間関係に積極的になることができ、それがまた、新たな営業先の開拓に繋がった。

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