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転職を繰り返した女(解決編) 比較と競争II

他人と比較することをやめる目途がついた梨華は、ユキナから言われたもう一つの課題の解決に着手することにした。それは、他人との競争から逃げないことだった。他人と比較するのをやめることと、サボって競争から逃げることは全く別の話だと、ユキナは説明してくれた。


ユキナに指摘される前から、梨華は他人との比較はよくないことだという自覚があったし、それをやめたいという意思があった。だから、ユキナと話した当日中に、速やかにSNSを削除した。

しかし、他人との競争ということについて、梨華はこれまで深く考えたことがなかった。どちらかと言えば、競争に対して苦手意識があった。


勉強、就職、貯金、美容、結婚や子育て、その他あらゆる分野において、平均程度に出来ていれば、それで十分だろうと考えていた。今となってはそのほとんどが平均に満たなくなってしまったけれど、今の梨華の目標は平均に回帰することであって、それ以上の野望、例えば大金持ちになってやろうなどという気持ちは存在しなかった。


梨華の人生で最後の競争は、大学生の頃に行った就職活動だった。そこで梨華は敗北をした。あの時点で既に、まともに戦うことから逃げていたとも言える。すなわち、敗北未満であった。そしてそれ以降の人生では、そもそも自分が戦いの場にいるのだという自覚があまりなかった。


でも、今になって思い返すと、社会人になってからも戦いの連続だった。

受験や就職活動というわかりやすいイベントではないけれど、毎日の積み重ねで決まる戦いが社会にはあった。無意識にそれから逃げていた梨華と周囲の人たちとの差は、梨華が気づかないうちに徐々に広がっていった。そして、それよりも辛いことに、梨華自身の理想と現実の間の乖離が、日々大きくなっていった。


とはいえ、梨華も全く何もしなかったわけではなかった。

大学を卒業してからの9年間の間で、資格の勉強をしようかと思ったことは、何度もあった。実際に、秘書検定、色彩検定、MOS、ファイナンシャルプランナー、その他いくつかの資格を取った。しかし、これら梨華の持っている資格は、履歴書の資格欄を空欄のまま提出しないことで精神的に落ち着けること以外、ほとんど転職活動の役に立たなかった。


もう少し難易度の高い資格、例えば簿記や情報処理の資格があると転職活動に有利だという話を複数の人から聞いて、参考書を購入したことがあった。けれど、数字の羅列を見続けていると眠くなったので、すぐにやめた。外国語の資格は、リスニングテストが全然できなくて、1度も受験することなく諦めた。


27歳くらいのころ、職業訓練校で勉強をして、ウェブデザイナーになろうと考えたこともあった。ワーキングホリデーでオーストラリアに行って、アルバイトをしながら英語の勉強をしようと画策したこともあった。でも、そのいずれも、実行に移さなかった。ユキナにこの話をすると、

「ほんと、絵にかいたようなダメ社会人よね。どうせ応募手続きが面倒臭くなったとか、せいぜい100万円程度のお金を捻出することすらできなかったとか、その程度の理由でやめたんでしょう」

と、呆れられた。実際、その通りだった。多少の障害があったとしてもいくらでも実行に移す方法はあったのに、それをしなかったのは、梨華自身の決意が弱い証拠だった。


SNSのフォロワー数を更に増やしてお金を稼ごうと頑張ったこともあった。けれど、「無能ちゃん」のフォロワー数が増えたところで、素直には喜べなかった。その話をユキナにすると、

「勝って嬉しくない競争に参加する意味が分からない」

と、一蹴された。


お金持ちと結婚をして専業主婦を目指そうと思ったこともあった。けれど、恋愛市場での競争にも、梨華は本気で挑めなかった。お金のためにそれ以外を諦めるという選択をする覚悟が、梨華にはなかった。優柔不断で決めきれないでいるうちに30歳を越え、さらに結婚のハードルは上がってしまった。


結局、梨華は自分の人生を変えるための努力を怠った。幼い頃にアイドルのオーディションに参加して悔し涙を流した梨華は、15年後、アイドルたちの人気投票に参加して他人の夢を応援するだけの人間になった。自分自身の夢を諦め、いつの間にか忘れてしまっていた。


これまでの人生を振り返っていろいろ考えた結果、梨華は、16年ぶりにテニスを再開することを決め、社会人サークルに参加した。東京には複数のテニスサークルがあったので、交流目当てのお遊びサークルではなく、比較的本気で競技レベルを上げることを目的としているサークルを選んだ。そして、まずはそのサークル内で一番強くなることを目指すと決めた。


そのことをユキナに伝えるとき、梨華には不安な気持ちがあった。テニスをすることと、転職活動は直接関係がないからだ。もしかして、これも「逃げ」なのではないかと自問自答した。けれど、すっかり競争から逃げることに慣れ切っていた梨華には、他によいアイディアが思いつかなかった。


ユキナの反応は、予想以上に前向きなものだった。ユキナが言うには、むしろ仕事とは直接関係のないところが良いらしかった。もちろん、梨華にとって直近の目指すべきゴールは、正社員になってキャリアや生活を取り戻すことだったけれど、それは今さら足掻いて短期間でどうこうなる話ではない。

仕事は仕事として今の派遣社員としての業務を続けることが前提だけれど、仕事だけをしていても真っ当な精神は養われないというのが、ユキナの持論だった。


梨華が参加したテニスサークルには、様々な経歴を持った人がいた。

就職を機に九州から上京してきて心細さを感じている若者、妻に太ったことを指摘されて20年ぶりにラケットを握った中堅社会人、子育てを終えて暇になった中高年の方など、年齢層は幅広く、職業もフリーターから公務員、経営者まで様々だった。しかし、年齢や立場、競技歴が違っても、それぞれが自分なりにテニスを楽しんでいた。


梨華はこのサークルで、4歳年上のミキコとダブルスを組んで大会を目指すことになった。2か月前までミキコのペアだった選手が妊娠を機にサークルを退会してしまい、新たな相手を探していたところにちょうど梨華が入会したのが、ペアに誘われたきっかけだ。


ミキコとは、単なるテニスのペアとしてだけではなく、プライベートの話もするようになった。

ミキコは、いわゆるキャリアウーマンとして大手企業で営業の仕事をしていた。毎年、梨華の3倍近い金額のお金を稼いでるらしい。梨華の派遣先の正社員にもよくいる、穏やかで優しく、それでいて自分の意見をハッキリと分かりやすく他者に伝えることができるタイプの女性だった。


その話を聞いた梨華は、自分よりも先のライフステージに進んでいるミキコのことを、羨ましい気持ちになった。一度は消えかかっていた黒い感情が、自分の中で再び大きくなりつつあることを、自覚した。


けれど、梨華にはもう、SNSのアカウントはない。なので、そういう複雑な自分の感情を、ミキコ本人にぶつけてみた。するとミキコは、

「私も苦労してるのよ」

と言って少し困った表情をしていた。けれど、すぐにいつもの優しい笑顔に戻って、梨華の長くてまとまりのない話を聞いてくれた。


ミキコと直接話したことで、少しだけ気持ちがすっきりした。これは、中高生の頃にウララと一緒にいた時とも、新入社員の頃にアカネと一緒にいた時とも違う、不思議な感覚だった。


ミキコは、3年前に結婚したけれど、子宝に恵まれず、夫と二人で不妊治療に勤しんでいるという話もしてくれた。会社では、中間管理職として上司へのゴマスリと部下の管理が大変だと語っていた。それでもいつも最後は、

「まぁなんだかんだ楽しい人生だけどね」

と、言って、話を締めくくった。


初めてミキコと一緒に参加したテニス大会は、個人が主催している小さな大会だった。ミキコも梨華も日々練習を頑張ってきたつもりだったけれど、抽選の結果、優勝候補のペアと1回戦で対戦することになり、あっさりと負けて敗退した。

試合前は、「楽しむことを第一に頑張ろう」と声を掛け合っていたし、組み合わせが発表された時点で勝ち上がることが難しいことはわかっていたけれど、それでも悔しかった。


その日以降、ミキコと梨華は、練習時間を少しだけ増やした。10代の頃のように身体が動かないとミキコに伝えると、

「35を越えたらもっとひどくなるわよ」

と言って、ミキコは笑っていた。


このころから、梨華は派遣社員として働く現在の仕事のことを、辛いと思わなくなってきた。というより、冷静に考えると、仕事自体は初めから辛くもなんともなかったことに、今さらながら気が付いた。

ここ数年の間に梨華に与えられた業務は、書類のコピーや初歩的な表計算・資料作りなどであり、仕事ができないと自認している梨華であっても、概ね問題なく遂行できるものばかりだった。もちろん多少のミスはあったけれど、この程度の失敗は誰にでもあるものだと割り切れて、必要以上に落ち込むことが減った。


かつての梨華が本当に辛かったのは、業務の内容でも、職場の人間関係でもなかったのだ。自分がどうしようもなくダメな人間であるという劣等感、これまで育ててもらった両親や優しく接してくれる同僚に対する罪悪感、そして、それらを感じながらも何も変わろうとしない自分に対する嫌悪感が、これまで梨華を苦しめていたものの正体だった。


今の梨華も、相変わらず働くことが嫌いではあったけれど、それは「だるい」「面倒くさい」と言ったごく一般的な会社員が抱く感情の域を出ておらず、極端な嫌悪感や条件反射的な拒否反応ではなくなっていた。

会社の外に居場所を見つけた梨華にとって、職場での状況が人生の幸福度全体に占める割合が、相対的に低下していた。


ユキナはよく、

「まずは正社員にならなければ、まともな仕事を任せてもらえないの。それはつまり、立派な人間になるチャンスを得られないってことよ。だから、一度非正規社員になると、簡単には這い上がれないわ」

と、言っていた。初めてこの言葉を聞いた時、梨華は、「少ないとはいえ正社員登用の事例もあるわけだし、さすがに言い過ぎではないか」と、思った。

一方で、ミキコが日頃行っている業務の話を聞いていると、今のまま書類をコピーしたり初歩的な事務作業を続けているだけでは、客観的に「業務遂行能力が身についた」とは認められないだろうという実感もあった。

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