転職を繰り返した女(解決編) 比較と競争I
梨華が長い長い自叙伝を語り終えた後は、今度はユキナが喋る番だった。
ユキナが言うには、梨華が転職活動に失敗したのは、転職活動よりも以前の行動に原因があるらしい。初めてそう告げられた時には違和感があったけれど、
「ダメ人間が転職で一発逆転をしようとしてもうまくいくはずないわ。人間、コツコツ積み上げてきた結果が今なのよ。まずは立派な人間になる、その後に転職活動をして、立派な人間に見合う内定を得る。この順番は決して逆にならないの」
という風に言い換えられると、急に腑に落ちた。
梨華は、ユキナのいう「立派な人間」というのが何か気になったので、尋ねてみた。するとユキナは、
「それは自分で考えなさいよ」
と言って、答えを教えてくれなかった。すぐに次の話へと話題が移っていったので、梨華には自分で考える余裕がなかった。梨華がマルチタスクを苦手としていることも理由の一つだったけれど、それ以上に、ユキナの話はその全てが重要で、聞き漏らさない方がよいという緊張感があった。
そこで、とりあえず仮の設定として、立派な人間とは「人並みのキャリアを築き上げている人間」だと理解することにした。「人並み」が何なのかなど、深く考えるとキリがない気がしたので、梨華はそれ以上のことを考えることをやめた。
ユキナは、梨華のような人を過去に何人も見てきたのだと言っていた。梨華のように年齢を重ねるにつれて自信を喪失し、やる気も向上心もなくなり、のらりくらりと短期離職を繰り返す人は珍しくないらしい。人間が破滅するパターンとしては比較的王道だと言いながら、ユキナは笑っていた。梨華は、先人たちが今どこで何をしているのか気になったけれど、怖くて聞くことができなかった。
梨華のような人たちは、ギャンブルで全財産を失ったとか、薬物にハマって抜け出せなくなったとか、飲酒運転で人をはねてしまったとか、そういうわかりやすい破滅ではない。タコが自分の足を食べて飢えをしのぐように、黒くて重いものがジワジワと心身を蝕んでいき、いつの間にか取り返しのつかない事態へと陥るタイプの破滅。ゆっくりと自分で自分の首を絞めながら、弱っていく人生。それが今の梨華なのだとユキナは言った。
更にユキナは、一度は「もう諦めた」と自分に言い聞かせた幸せな人生を、「やっぱり自分の手に取り戻したい」と考え始める年齢が、30歳前後だとも言っていた。
それはまさに、梨華がこの日、ユキナのいる転職エージェントへと足を運んだ理由だった。最近は、ずっと梨華を信じて責めることをしなかった母が心配の言葉を発する機会が多くなり、学生時代の友人知人たちとは疎遠になった。心の支えだったSNS上の知り合いすら、いつの間にかその数を減らし、新しくやってきた下の世代の共感者が、アクティブなフォロワーの大半を占めていた。
会社では年下の人間に指示をされることが増えたし、同世代の正社員が順調そうな人生を送っている姿が嫌でも目に入った。定期的に行われる健康診断のプログラムが増え、焼肉の食べ放題が辛くなり、以前ほど長時間眠ることができなくなり、その他、生活の様々な場面で自分の加齢を感じ始めた。
そんな人生を過ごす中で再び危機感を取り戻し、一念発起して、梨華は今ここでユキナと対話している。
ユキナが言うには、梨華の性格には大きな問題があり、それがキャリアの足かせになっているとのことだった。
「他人と比較するクセに、他人との競争からは逃げる」
ユキナが評したわずか20字程度の短い言葉に、梨華の問題点の全てが詰まっていた。
この性格に改善の兆しが見られない限り、ユキナは梨華に求人を紹介するつもりがないそうだ。具体的にどうすればいいのか聞いたけれど、それは自分で考えろと冷たくあしらわれた。梨華は、「肝心なことを教えてくれない人だな」と、思った。
とはいえ、思い当たる節は無数にあった。幼い頃は、自分の両親と他人のそれを比べた。学生の頃は、自分自身と同級生を比べた。そして働き始めてからは、インターネットの世界を通して、直接かかわりのない人たちと自分を比べていた。
しかし、だからと言って、他人と戦って勝とうとはしなかった。自分より極端に格上だと認めた者に対しては、別の世界の住人だと思い込んだ。わざわざ自分より格下に見える者を探し出して、安心した。自分と似た境遇の仲間を見つけた時は嬉しかったけれど、内心では、「この人よりはマシだな」と考えていた。
多少の得意不得意はあったけれど、梨華はおそらく、生まれつきダメ人間だったわけではない。ごく平均的か、どちらかといえば平均より優秀な子供だった。少なくとも、義務教育という枠組みの中では、それなりにうまく生きてこられた。しかし、その年齢を過ぎた後も、両親からの高い評価に甘え、世間からの客観的な評価を受け入れることを拒否し続けた。
受験勉強や就職活動では、当時の自分としては頑張ったつもりだった。けれど、客観的に見ると、到底努力したとは言えない努力量だった。その結果、いつの間にか平均レベルにすら達しないキャリアを築き上げるに至った。
梨華の両親はいつだって梨華を守ってくれた。しかし、それは本来、本当に困った時にだけ使うことが許されたセーフティネットだ。日常的にダラダラと甘えていい年齢はとうに過ぎたのに、梨華はいつまでも生活を母に委ね、精神的・物理的に頼り続けていた。そのことをユキナに指摘された時、両親が守ってくれている間に他人と本気で戦う経験を積むべきだったと、後悔した。
梨華の父はもうこの世にいない。頼りにしていた母は既に定年退職を迎え、そう遠くない未来に弱っていくことが確実だった。梨華はこれまで、「自分を理解して守ってくれる両親」という決して当たり前に存在するわけではない大事な大事な武器を、防具を、環境を、無駄遣いし続けた。
これまでの梨華にだって、人生を変えてみようと一念発起することは何度もあった。けれど、その全てが、長続きしなかった。そうして失敗を重ねるうちに、「今さら頑張ってもどうにもならないから、やる気が出ないのも仕方ない」と、自分に言い聞かせて落ち着いた。そしてまたしばらく経つと、焦って何かを始めた。こんなことを、何度も何度も繰り返してきた。
結局この日、転職エージェントのユキナは、梨華に求人を1つも紹介してくれなかった。梨華が頼んでも、
「あなたはまだ私が求人を紹介できる状態ではない」
の一点張りだった。
梨華としても、転職エージェントから良い求人を紹介されないことは想定内だった。転職エージェントが梨華をダメ人間と判断した場合、紹介手数料目当てで適当なブラック企業の求人を紹介されて終わるのだと思っていた。しかし、ユキナはホワイト企業だけでなくブラック企業の求人も紹介してくれなかった。
ユキナは、
「転職エージェントにとってお客様は紹介手数料をくれる企業で、求職者はそこに納品する商品なの。つまりね。お客様に役に立たない商品を納品したら、私が怒られるのよ。無料で面談に来た商品であるあなたと、紹介手数料を支払って人材を買ってくれるお客様企業。どちらが私にとって大切だと思う?」
と、聞いてきた。梨華が黙ってると今度は、
「まぁ、あなたみたいな不良在庫は、その辺のブラック企業にセール品として安い仲介手数料で売りさばくこともできるけどね」
と、言った。ユキナの言うことは、正論だったけれど、梨華は、「そんなにハッキリと言わなくてもいいのに」と思った。
建前を使わないユキナは、梨華が知っている転職エージェントとは180度異なる人物だった。
仕方がないので、この日、梨華は求人を紹介してもらうことを諦めて、帰宅した。時間を無駄にしたとも思ったけれど、自分の半生を振り返り、ユキナに話を聞いてもらったことで、心なしかスッキリとした気分になった。そして、不思議な転職エージェント、ユキナの言葉を信じてみようと思った。
その夜、梨華はスマートフォンから全てのSNSのアプリを削除した。「無能ちゃん」のアカウントは楽しくて癒されるけれど、こんなことをいつまでもやっていてはいけないと思ったからだ。それに、SNSを開いている瞬間は楽しくても、後になって感じる罪悪感は日に日に増していた。
以前からぼんやりと「そろそろ潮時ではないか」と考えていたこともあり、SNS断ちを、ユキナと話して多少は人生にやる気が戻ってきたこのタイミングで、実行に移した。
しかし案の定、数日経つと再びインストールをしてしまった。そこで、次はアカウントを削除することにした。フォロワーが4,500人まで増えたアカウントを削除するのは惜しかったけれど、今の自分にとって大切なものはもっと他にあると考え、決断した。
最近のSNSは、アカウントを削除しても、一定期間内であれば復活させることができる仕様になっている。ユーザー数を減らしたくないという運営企業側の思惑通り、梨華は、2週間後にアカウントを復活させてしまった。
その旨を投稿すると、大勢の人が「無能ちゃん」の復帰を歓迎してくれた。しかし、彼らが歓迎しているのは「無能ちゃん」であり、梨華ではないことに、梨華はもう気づいてしまっていた。そしてまた、憂鬱な気分になった。
「無能ちゃん」のアカウントを復活させた翌日、梨華は再びユキナの待つ雑居ビルへと会いに行った。事前に連絡することなく突然現れた梨華に対し、ユキナは、
「大人としての常識がない」
と言って、呆れていた。けれどユキナは、この日も長時間、梨華の話を聞いてくれた。
SNS断ちに失敗した経緯をユキナに報告すると、
「あなたが自分の心がけ一つで行動を変えられるような人間なら、その歳になる前にとっくに変わってるわよ」
と、言われた。梨華は、反論ができなかった。
ユキナ曰く「昨今は誘惑が多く、自己制御ができない人間には生きづらい世の中になった」そうだ。
パチンコ店から遠く離れた場所に引っ越しても、スマートフォンで気軽に馬券を買ったりオンラインポーカーができる。喧嘩した恋人に謝って許してもらわなくても、マッチングアプリを開けばすぐに新たな異性と仲良くなれる。そして、仕事が嫌になったら、退職代行を使ってその日のうちに会社を辞め、求人サイトから新たな仕事を見つけることができる。
これらはいずれもここ数十年以内にできた仕組みだとユキナは教えてくれた。昔の就職・転職希望者は、求人雑誌で探し出した企業に1枚1枚ハガキを書いて応募していたという話を聞いて、梨華はぞっとした。面倒そうだと思う反面、そんな時代に生まれていれば、もっと1つ1つの企業を大切にできたのではないかと思った。
梨華は、SNSにログインするためのIDとパスワードをユキナに伝えた。ユキナに頼んでパスワードを秘密の質問ごと変更してもらった結果、梨華は「無能ちゃん」にアクセスすることができなくなった。
そのうえで、ユキナが「無能ちゃん」を削除した。梨華がそれを頼んだ時、ユキナは、
「もうログインできないんだし、別にそこまでする必要はないんじゃない?」
と、言った。
「何事も初めから全力でやろうとすると逆に失敗する」「物事をゼロかヒャクかで考えるのは精神が幼い証拠だ」
というのが、ユキナの主張だった。
けれど、梨華が、
「全力どころか、この程度最初の半歩にも満たないでしょ」
と言うと、ユキナは珍しいものを見るような目をしながら、
「ふぅん。一応あなたなりに考えてるんだ」
と言って、梨華に代わってアカウントを削除してくれた。
それから30日程度経過したある日、梨華の心の拠り所だったアカウントは、この世から完全に消え去った。
ここまでのことをして、ようやく梨華はSNSで傷のなめ合いをする人生から脱却することができた。それは他人から見ると些細な話かもしれないけれど、梨華にとっては、確実に一歩前進した。やろうと思えば別のアカウントを作ることもできたけれど、せっかく集まった4,500人のフォロワーを捨てて、また1からアカウントを育てようとは思わなかった。
もちろん、SNSを辞めたところで、他人と比べることを完全にやめられるわけではない。優秀な姉は今も健在だし、ポータルサイトの検索を利用して、かつての同級生の情報を調べることは容易にできた。でも、「自分の自虐的なプライベート」をおもしろコンテンツとして切り売りすることをやめると、少しだけ前向きになれた気がした。




