転職を繰り返した女(事件編) 新卒時代
人生で一番の苦労の末にようやく得た内定先だったのに、働くことは憂鬱だった。正直に言うと、入社前の段階から既に、梨華は働きたくないと思っていた。その理由は、同級生たちの内定先と比べて賃金・休日数・知名度・業務内容のカッコよさなどで劣っているからというだけではない。梨華はそもそも働くことに対して億劫だった。大学の卒業が確定してからの約1か月間、実家の2階でダラダラと時間を浪費している時間が、何よりも幸せだった。
もちろん、4月1日の入社式の日には、そんな態度は見せなかった。たった一人の新卒、梨華だけのために、社長以下22人の既存社員全員が集まって、入社を祝ってくれた。求人票には24人と書いてあったことを思い出して尋ねてみると、梨華が内定を得てからの4か月の間に、2人退職者が出たらしい。梨華の上司となる40歳くらいの男性から、「最近は仕事が忙しくて大変だから、期待してるよ」と、言われた。この言葉がプレッシャーに感じ、胃がキリキリと傷んだ。
河合造船は、社員全員が家族みたいな会社だった。求人票にそう書いていたし、実際に入社してもそう感じた。学校のクラスよりも少人数の組織であるから当たり前なのかもしれないけれど、社員同士は全員が顔見知りだった。誰かの誕生日には全員でお祝いをしたし、風邪をひいて会社を休むと、自宅までお見舞いに来てくれる社員もいた。
梨華の仕事は、いわゆる事務作業全般を行うことだった。社員全員のスケジュール管理や、宅配便の受け取りおよび発送、入出金などの経理業務、それから、欠員を補充するための求人サイトへの出稿など、船を作る業務と売る業務以外のほぼ全てを、梨華と先輩のアカネの2人で引き受けた。
アカネは、クールでかっこいいタイプの女性だった。前髪が存在しない大人びた顔立ちに、黒いレザーのジャケットがよくマッチしていた。仕事が嫌いだということを隠そうともせず、いつもだるそうに仕事をしていたけれど、やるべきことはキチンとこなしており、男性社員たちからの信頼も厚かった。何か業務を頼まれるたびに面倒くさそうにしていたが、迅速かつ丁寧に、そして確実に、業務を遂行していた。
アカネは、梨華より2歳年上の24歳だった。18歳で高校を卒業した後に河合造船に入社し、それから6年間、ずっとこの仕事をしているらしい。誕生日を考慮すると、1年と少ししか違わない年齢なのに、梨華の何倍も、「社会人」だった。
アカネに、「あんた、いい大学出てるんでしょ。なんでこんなクソみたいな職場に来たの?」と、聞かれたことがある。「船を作ることを通して世の中の役に立ちたくて」などと、面接の時に言った回答をすると、「あー、別にそう言うのが聞きたかったわけじゃないから」と、言われたきり、会話が途絶えた。
梨華は仕事でミスをすることが多かった。資料コピーをしようとすると不要なものを大量にカラー印刷してしまったことがあるし、オフィスの鍵を紛失して鍵穴から全て取替を行うことになったこともあった。金額を一桁間違えた請求書を送ってしまいそうになった時は、アカネが寸前に気づいて修正してくれた。それ以外にも、アカネはいつも梨華のミスをカバーしてくれた。梨華が礼を言うたびに、「これが私の仕事だから」という決まった言葉が返ってきた。アカネは、怒っても、慰めてもくれなかった。
梨華は、アカネのことが好きになった。アカネはサバサバしていて、過度に感情的になることがない。自分の立場でやるべき業務をしっかりと完遂させているから、不平や不満を口にすることが多くても、他人にさほど悪い印象を与えない。アカネは他人との距離感を測ることがうまい。ワガママな社長とも、立派なビール腹を持った営業職のおじさんとも、アニメのストラップをカバンにぶら下げた開発職のオタク男子とも、ホストみたいな出入り業者の青年とも、そして、まったく仕事ができない新入社員の梨華とも、一定の人間関係を築いている。そんなアカネの姿を見て、梨華は、中高生の頃に同じ学校に通っていたウララのことを思い出した。
ウララは今、何をやっているのだろう。そう思ってSNSで彼女の氏名や誕生日を検索してみると、名門大学のチアダンス部に所属しているという彼女の写真が出てきた。日付を見ると、昨年撮影された写真だということがわかった。高校生当時のウララは一匹狼なタイプであり、どちらかといえばチームプレイは苦手な方に見えた。しかし、大学ではチアダンス部のリーダーを務めていたらしい。高校生のころ派手だった見た目は、むしろ大学生になって少し落ち着いていた。ウララが大学卒業後に何をしているのかまではわからなかったけれど、きっと輝かしい人生を送っているのだろうと思った。高校生の時点では、ウララは自分の何歩も先を歩いていると思っていたが、今となっては、もはや歩いている世界そのものが異なるように感じた。そして、ウララの未来を応援したいと思った。
ついでだったので、ウララ以外にも気になる人物のSNSを調べた。中学受験に失敗したユウカは、しぶしぶ進学した公立中学で不良グループとつるむようになり、その後、高校を中退したことがわかった。それを知って、梨華は少しだけほっとした。しかし、22歳になったユウカが既に母となり、2人の子供と楽しい日々を送っているということがわかると、今度はひどく落ち込んだ。すぐに、「どうせもう離婚しているんだろう」と思ったけれど、夫と子供たちと4人仲良く遊園地で遊んでいる写真は、3日前にアップロードされたばかりのものだった。週に2回程度というSNSを更新する頻度が、充実した人生を送っていることを示す絶妙なバランスに思えて、妬ましくなった。
当時も今も別にユウカのことが嫌いだというわけではないけれど、彼女もまた、自分とは違う世界に行ってしまったのだと感じた。そして、おそらくもう二度と関わることのないユウカのSNSに感情を揺さぶられている自分が、嫌いになった。
このころから、梨華自身もSNSで発信を行うようになった。これまでは好きなアイドルの投稿をチェックしたり、学校の同級生と付き合い程度にフォローし合っている程度だったけれど、生まれて初めて、匿名アカウントを作成した。「無能ちゃん」というアカウント名で、仕事での失敗話を面白おかしく書き込んだ。
梨華自身もそうだけれど、人間というのは、他人の失敗を見るのが好きだ。「無能ちゃん」のアカウントは、瞬く間にフォロワー3,000人の人気アカウントとなった。しかし、毎日何回も投稿しているのに、そこでフォロワーの伸びが鈍化した。3,000人という人数は、一般人にしては多いけれど、インフルエンサーと呼ぶには少なすぎる、微妙な人数だった。無能系アカウントがウケているといっても、所詮は3,000人程度にしか需要がないニッチな分野なのだと理解した。そもそも、ほとんどの人は上手に社会人生活をこなしているのだから、SNSで無能社員を観察しようなんていう発想にすらならないのだろう。十万人単位のフォロワーを抱える美女インフルエンサーの写真がタイムラインに流れてくるたびに、画面をたたき割りたくなる衝動を理性で抑え込んだ。
新卒入社から半年後の10月、梨華は河合造船を退職を決意した。たしかに仕事は嫌いだったけれど、何か決定的なきっかけがあったわけではない。ただ、毎日の業務で周囲に迷惑をかけているということに耐えられなくなっていた。SNSを通して様々な人の話を聞いていると、自分に向いている仕事はもっと別のところにあるのではないかと思ったことも原因だった。
決意を固めた翌日、上司に退職したい旨を伝えると、「寂しいね。人事規則に従って給料は今後1か月分ちゃんと払うけど、明日からは別に来なくてもいいよ。もちろん、来たいなら来てもいいけど、どうせなら休んでお金だけ受け取っちゃいなよ」と、言われた。半年前に期待の言葉を投げかけてくれた上司の表情や言葉は、今回も以前と変わらぬ温かいものだったけれど、仮面の奥にある彼の本音は、また別にあるのだと感じた。つまり、この会社にとっての梨華は、「いてもいいし、いなくてもいい存在」であることを理解した。




