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転職を繰り返した女(事件編) 幼少期

大橋梨華は、1993年に東京都江戸川区で生まれた。公務員の父と、看護師の母。9歳も年が離れた姉も、幼い梨華にとっては親のような存在だった。

近所には母方の祖父母が住んでいた。梨華は、特に祖母のことが大好きだった。いつも優しくて、おもちゃを買ってくれた。女児向けアニメのグッズを集めることが、幼いころの梨華の一番の楽しみだった。


梨華が生まれた時、梨華の父は既に50歳を超えていた。父方の祖父母は梨華が幼いころに二人とも他界していたので、梨華にとって、ほとんど思い出のない二人だった。

祖父の葬儀の際、名前も知らないおばさんが声をあげて泣きながら、

「おじいちゃん、梨華ちゃんが大好きだったのよ。生まれた時なんて大喜びして」

などと言ってきたけれど、特に感想はなかった。

でも、なんとなく、葬儀の雰囲気自体が嫌いだった。いつも元気な人たちが弱々しく泣いている様子を、梨華は見たくなかった。


梨華の誕生日は、12月28日だった。クリスマスとお正月の間に挟まれた、せわしない期間。それでも家族は、クリスマスともお正月とも別のイベントとして、梨華の誕生日を祝ってくれた。


幼稚園での梨華は、皆の人気者だった。明るく活発で、誰とでも仲良くなれた。運動も、音楽も、勉強も、どれも概ね優秀だった。性格は大人しくて真面目であり、先生にとって扱いやすい子供だったと思う。梨華自身にも、どんな難しいことでも自分になら達成できるという万能感があった。


幼稚園で、梨華はよく両親の自慢をしていた。ある年の連休明けに、梨華は両親に貰った大きなリボンを頭に付けて、登園した。お父さんがいないタクヤに対して、梨華がいかに父を好きかを何度も繰り返し伝えていた時は、先生に注意をされた。それでも、梨華は両親の自慢が止められなかった。


梨華より可愛い女の子はいなかった。梨華よりも頭が良い女の子も、梨華よりも友達が多い女の子もいなかった。少なくとも、両親や先生からはそう言われていた。梨華自身はあまり強く意識したことがなかったけれど、それでも、自分は他の子とは違うんだという想いが、心の底にはあった。


梨華の初恋は、5歳の時だった。同じ幼稚園に通っているコウヘイは、サッカーが好きな男の子だった。活発で、人気があった。コウヘイはまだ好きだとか恋だとかという感覚を理解していないようだったけれど、それでも、梨華のことを気にかけてくれていた。いつも積極的に話しかけに行く梨華のことを他の男の子がからかった時は、コウヘイが梨華を守ってくれた。


幼稚園を卒業する直前の2月14日、コウヘイに小さなハート形のチョコレートを渡した。それは前日、シフトがオフだった母と一緒にデパートで買ったものだった。コウヘイは少し恥ずかしそうに受け取って、他の子たちに見つからないようにすぐにカバンにしまった。そんな様子も可愛らしく思えて、ますますコウヘイのことが好きになった。


しかし、卒業式を最後にコウヘイと会うことはなくなった。この時代にはまだインターネットも携帯電話も普及していない。親同士は連絡先を知っているけれど、わざわざ連絡を取るということはなかった。驚くほどあっさりと、梨華はコウヘイのことを忘れた。ホワイトデーにコウヘイは何をお返しにくれたのだったっけ。そもそもお返しが存在していたかどうかすら、思い出せなくなっていた。


小学校に入ると、梨華の生活は一変した。梨華よりも可愛くて、頭が良くて、そして友達の多い女の子がたくさんいた。梨華はクラスの中で目立たない、地味な存在になった。髪を茶色く染めている子や、爪を綺麗に光らせている子が羨ましかった。両親にそのことを伝えると、

「小学生にはまだ早い」

と、一蹴された。両親に反抗することはよくないと思ったので、すぐに諦めた。

幼稚園の頃に感じた自信と万能感が、徐々に薄れていった。そのことが、更に梨華を大人しく目立たない性格へと変貌させた。


梨華の学校での立ち位置が確定的になったのは、授業参観が行われた日のことだった。シフト制の母はともかく、父までもが、わざわざ仕事を休んで駆け付けた。この日、クラスメイトのケンが、

「大橋の家ってじいちゃんが来てるの?」

と、聞いてきた。梨華が否定すると、

「マジかよ、父ちゃん老けすぎだろ」

と、笑われた。ケンの言葉をきっかけに、クラス中がざわついた。先生が制止するまでの5秒間が、梨華にとってはその何百倍もの時間に感じられた。恥ずかしさから父の方を見ることはできず、下を向いて口をつぐんだ。大好きだった父のことを、初めて嫌だと思った。


その日の夕食の際、父が、

「やっぱり皆の父さんは若いよなぁ」

と、言った。呑気な言葉に、腹が立った。梨華が、

「私ももっと若いお父さんだったらよかったのに」

と、言うと、父は、

「ごめんごめん」

と、謝った。その後も喚きたてる梨華を見て、父の表情は次第に真剣なものへと変わり、そして、しょんぼりとした様子で部屋から去っていった。


一連の経緯を見ていた母から、

「お父さんだって気にしてるのよ」

と言われたけれど、梨華には「気にしてるからなんなんだ」としか思えなかった。


次の日の朝、父が梨華に謝ってきた。もう参観日にはいかないという父を見て、少し申し訳なくなった。それと同時に、今度は、父を馬鹿にしてきたケンに対して怒りの感情が湧いた。

「別にいいよ」

と、父に言い残して、いつもより速足で学校に向かった。

それからしばらくの間、ケンやその仲間たちに父のことをからかわれたけれど、梨華が言い返さないことで面白くなくなったのか、すぐに何も言われなくなった。


家庭内での親子関係はすぐに元通りになり、今まで通り梨華は可愛がられた。しかし、あの日を境に、もう二度と父が参観日に来ることはなかった。運動会と音楽会の日には学校に来て、遠くからこちらを見ていたけれど、学校内で梨華に話しかけることはなかった。


梨華は、ごく普通の小学生だった。勉強は得意というわけではなかったけれど、人並みにはできた。得意の国語については、クラスメイトに教えたこともあった。運動も人並み、音楽や図画工作も人並みだった。

幼稚園に通っていたころのように大々的に恋をすることはなかった。本当は少しだけ気になる男の子がいたけれど、誰にも言わなかった。

彼は勉強が得意だけれど、それ以外は何もできないというタイプで、どちらかと言えばいじめられっ子だった。かつての梨華なら身体を張って庇ったかもしれないけれど、今の梨華にその勇気はなかった。


梨華は、アイドルになりたかった。小学校五年生の時、両親に頼んで、オーディションに参加したことがある。書類選考を通過して面接に呼ばれたけれど、そこで不合格になった。とても悔しくて、合格発表の日は一日中泣き続けた。

当時は落ちた理由がわからなかったけれど、合格者を見ると、納得できた。梨華には受かる理由がなかったのだ。「アイドルのオーディションとは、落ちることが普通で、特別な人だけが受かるものなのだ」という学びを得ることができた。


梨華がアイドルのオーディションを受けたことを、学校では親しい女の子数人に話したことがある。すると、その噂がたちまちクラス中に広まった。誰が最初に言いふらしたのかは分からないけれど、なんだか恥ずかしい気持ちになった。クラスの中で地味な存在だった梨華がアイドルを目指していたということを知り、ある女子は好奇心から選考の詳細を聞いてきたし、ある男子は冷やかしてからかってきた。梨華にとっては、過去のことなので今さらどうでもよかった。


梨華は中学受験をした。当時は今ほど中学受験をする児童は多くなく、各クラスに5、6人いる程度だった。4年生の頃から学習塾に通い始め、学校での成績はトップレベルになった。しかし、中学受験界隈における偏差値は、一向に高くならなかった。

中学受験を最初に言いだしたのは、両親ではなく梨華の方だった。両親は興味がなさそうだったけれど、友達のユウカも受験するという話をしたり、進学したい女子校の話をしたりしているうちに、徐々に納得してくれた。


そんな風に多少のワガママはいったけれど、小学生の梨華は、総じて「手のかからない子供」だった。9年前の姉とは全然違うと、両親は言っていた。そのたびに、既に成人を迎えた姉は、恥ずかしそうにしていた。


大人しくて問題行動を起こさないし、何かが特別できたりできなかったりというわけでもない。クラスメイトを扇動して何か勝手なことを始めるわけではないが、友達が全くいないわけでもない。それが学校での梨華だった。数人の女子生徒と仲良く平和な日々を過ごしていた。ユウカ達数人の友人を除いては、先生や同級生の誰から見ても、どうでもいい存在だった。


そんな梨華にとって受験勉強は、日常であり、重要なタスクであり、そしてアイデンティティだった。ただ勉強をしているだけで、学習塾でいろいろな先生が気にかけてくれることが嬉しかった。本来であれば学校もこういう場ではないかと思った。音楽会や遠足が嫌いなわけではなかったし、実際にやってみればそれなりに楽しむことはできたけれど、そんなに重要なイベントだとも思えなかった。


小学生時代の梨華には、たった一度だけ、先生に怒られた経験があった。それは、クラスメイトの男の子が鉄棒で危ない遊びをしていたのを止めなかったことだった。目の前で繰り広げられている危険な遊びを、梨華の隣に座るユウカ達が煽っていた。梨華は男子と関わることが苦手だったし、興味もなかったので、ただぼーっとその様子を眺めていた。すると、男子やユウカと一緒に強く怒られた。理不尽だなと思った。

「私は見てただけ」

と、抗弁しようとしたけれど、ユウカが先にそれを言って更に怒られている様子を見て、口をつぐんだ。


5年生になったころ、父との関係について、梨華の心境に変化があった。小学校高学年になると、高齢の父のことを恥ずかしいと思うことは道徳的によくないことだと考えるようになった。でも、今さら父に「参観日に来て欲しい」、「運動会の日は一緒にお弁当を食べたい」と告げる勇気がなかった。結局、父と学校で話すことは一度もないまま、卒業の日を迎えた。


その日、約6年ぶりに父と学校で話した。校門の前で卒業証書を手に、母を加えた家族3人で写真を撮った。校門の前には撮影を望む人たちで行列ができていた。

梨華の後ろに並んでいたのは、ケンだった。1年生の頃は生意気だったケンは、この6年間の間ですっかり丸くなっていた。梨華の父を見て、ケンは黙って彼の母の後ろに隠れた。梨華の父の方は、成長したケンを見て、誰なのかよくわかっていない様子だった。


家に帰ってから、父は何度も何度も、卒業アルバムを見返していた。幼稚園のそれと異なり、梨華はあまり目立つ活躍をしている写真がなかったので、見られている間、ずっと恥ずかしかった。冗談交じりに

「もう見ないで」

と言ったけれど、父は見ることを止めなかった。

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